◎林状元

 

わが福建は前明のとき、鼎甲[1]がもっとも盛んで、三百年間で状元に合格したものは十一人、榜眼は十二人、探花は十人であった。本朝の百余年来は、しばしば榜眼が出ている。乾隆年間「四眼開けば、状元来らん。」の歌あった。当時、允庭(啓元)[2]秀山(晋)[3]、呉虹(文[4]、林清圃(枝春)[5]があいついで榜眼に登り、みな状元は確実に期待できるといっていた[6][7]の王文端公[8]がおりしも修撰[9]として福建の学校を視察しに来ていたので、その言葉は現実となった。嘉慶己巳[10]になると、廖夫(荃)榜眼に登ったが、状元はなおなる人がいなかった。道光丙申、林勿村(年)がはじめて状元となり、何傑夫(冠英)もともに榜眼に合格した。勿村はすぐに冊封琉球正使となり、一品の官服を加えられた。科挙合格の盛事が、一時に集まった。わたしは、状元は他省では奇とするに足りないが、わが福建にあっては二百年来破天荒の事であると言った。勿村の家系について、わたしは詳しくないが、郷里ではなおその祖父封翁[11]某の事を嘖嘖[12]と語っており、発祥[13]には由来があるので、すぐに記すことにした。以前、封翁某が漫遊して帰り、南台[14]の中亭街[15]を通ったところ、路傍の魚屋で一人の客が怒鳴られ、掴まれ、拳で殴られようとしていた。客は哀願するにいたったが逃れられず、ひどく苦しんでいた。封翁は質して負債を償うことを求めるためであることを知り、その金額を尋ねれば洋四十元であった。封翁は気前よく言った。「わたしの身辺にはちょうど洋四十余元があるから、かわってこの借金を完済できる。」すぐに銀を出して渡したので、事はにわかに解決した。客はたいへん徳とし、封翁の姓氏住所およびその子孫の名をくわしく尋ね、家に帰ると長生[16]を作って「恩公[17]」と記したこのようにすること二三十年、勿村が合格しても、この客はまだ生きていたので、家にいって祝った。当時、封翁はすでに亡くなっていたので、その祖堂[18]いって哭いて拝し、その事を人々にむかって讃えた。そもそもここに至って勿村はみずからはじめてその顛末を知ったのであった。陰徳の報いは、本当に嘘でなかった。

 

光禄

 

雪椒光禄[19]は、嘉慶甲子の郷試に合格したが、庚辰になってはじめて進士となった。その年、公[20]蘇州を通ったが、路銀乏しかったので、回り道して乍浦[21]にゆき、同郷の誼で五十元を集めた。蘇州に帰ってしばらく宿屋にとどまっていたところ、隣で娘を売るものがたいへん悲しく哭いていたので、一念に忍びず、洋二十八元を出して贖って完済した。同郷のものはかれが貧しいのを憐れみ、さらに十余金を集めたので、孑然と都にゆき、苦労して試験場に入った。結局、合格でき、刑部で政務を執った。大司寇望坡先生に褒められ数年足らずで京察[22]の恩典を得、郎中から出て監司となり、すぐに湘中で司法官となり、歴[23][24]し、さらに中央で光禄卿になった。この事は雪叔先生自身は言っておらず、江蘇の刊本『勧戒近事略』が載せているので、わたしの郷里の人ははじめてそのことを知ったといった。

 

貧しい家が米を送ること

 

観察が言うには、その祖父光禄公は百夫[25]の官となったことがあったが家は貧しく、歳末も蕭然としてなすすべがなかった。日が暮れて一人坐していると、射撃を学ぶものが、年賀一箱を送ってきたので、開いて見ると、銭[26]一千銭だけであった。そこでひそかに、わたしは貧しくても、人が年賀を送って来るが、某は親戚が死んだばかりで、妻は寡婦で子は幼いのに、どうして年越ししようと思った。そこで票を懐にし、馬を引き、門を出、碓坊[27]にゆき、米五斗あまりを買い、馬の背に負わせ、みずから親戚某家に送った。かれの家族は訝った。「廖家は米を送ってきたばかりですのに、どうしてさらに送るのでしょう。」尋ねれば、その祖母王太夫人が、早朝すでに米を五斗送っていた。帰って尋ねると、王太夫人は、実はかれが貧しいことを思っていたのだがわたしの家もゆとりがあるわけではないからあなたの心を煩わすことを心配したので、みずから耳輪を質入れし、買って贈ったのだと言った。公はたいへん喜び、臘酒[28]で慰めた。「夫を助けるものは、このようにするべきだ。」さらに、その父光禄公が王太夫人を世話したので、親の心を体することに努めているのだと言っ。以前、親戚某が県の[29]を担当し、公金を横領し、役人に捕らえられ三日以内に納めなければ、叩き殺すことに決まった。某の妻は家屋の証文を持ち、哭いて王太夫人に告げ、これを質に、三百千を貸すことを求めた。王太夫人は公言った。「このよいことを、なさるべきです。」。公はつつしんで承諾し、すぐに三百千を与えたが、一日後、さらに来、家屋はもともと借りた金以上の価値があるが、今、公金まだ足りないと言い、さらに百千を貸すことを求めた。王太夫人はさらに公言った。「『人を救うときは徹底的に救うべし』といいますが、そうなさるべきです。」。公はつつしんで承諾し、さらに百千を増した。後にその事が本当でその証文が偽り増額を求めたその夫の釈放後に妻にせてみたものであることをひそかに知ったが、結局問題にしなかった。

 

◎拾いものをして返さないこと

 

卿がさらに言うには、その家は旧城の北の夾道坊にあり、向かいでは江西人が菓子店を開いていた。ある日、役所の長随に似た装束のものが入ってきて食事し、食事しおわると匆匆と店を出た。主人が食器をしまおうとすると、(つくえ)の上に一つの小さい布包みが残されており、解いて見ると、質札二票五百余千であったので、ひそかに中に入れた。まもなく、さきほどの男がよろよろと来、上下をくまなく探したが、顔はげっそりとし主人言った。「わたしは某公館のしもべで、今朝上司がわたしに皮箱(かばん)二つを渡し、わたしに質入れするように命じましたので、長生質店で銅銭五百四十千を得たのです。質札が白い布の手巾の中に包まれていましたが、急いでいたのでこちらに忘れてしまいましたお返しください。死ぬまで徳を忘れようとはいたしません。」主人は色をなして言った。「この地は人が多いから、誰が拾っていったか分かるものか。」その人は哭きながら跪いた。「物が見つからなければ、上司に会わせる顔がございませんから、入水して死ぬだけでございます。」時に、見るものは垣のようで、みな主人に注目していたが、主人は天の日を指して誓った。「わたしが拾って返さなければ、やはりかならず水で死ぬだろう。」人々はそこで釈然とした。その人は起きあがると、涙を落としてすぐに去った。主人はその財だんだん運用し、漆器を延平で売り、往来して巨利を得た。一年後、その子を連れ、有り金をはたいて商品を買い、延平にいって交易し、大きな利を得帰り、南蛇[30]を通ったところ、舟が蛇頚にぶつかってすぐに砕け、一片の板も残らず、父子ともに溺れたので、水に死ぬという言葉は現実となった。

 

◎辛生

 

仙遊[31]の辛生は、もともと文名があったが、訴訟も巧みで、貴州の訴訟好きは、みなかれを頼りにしていた。そのため余裕の資金を蓄えたが、凶年になっても、親戚の炊ぎを待っているものはその一粒の粟も施されなかったので、たいへん怒った。年が四十を過ぎても子がなく、神に祈り、一生の福命[32]一子に易えることを願った。夢みると神が怒鳴った。「おまえは訴状を作り、黒白を乱し、人の家産を破り、人の財貨を偽ることが多く、禍を逃れる暇がないのに、子を望むのか。」辛は言った。「これをとして久しく、悔いてもすでに遅いですが、どうしましょう。」神は手ずから「厨刀[33]を放たば、たちまちに仏とならん。」の八字を書いて示した。辛は目ざめてから汗を流し、誓いを立てて職業を改め、大金で呼びかけても顧みず、かえって人のために調停して訴訟を収め、前後で別人のようであった。このようにすること一年余り、また神に祈り、夢みたところ、神が諭した。「おまえは近頃することがたいへんよいが、おまえは平生なお罪悪があるのに、どうして悟らないのか。」そこで手ずから「よく人と年穀[34]をともにせば、かならず明月の蚌胎を出づるあらん。」の十四字を書いて示した。辛は心にその趣旨を理解し、悚然として目ざめたが、この二句の由来を知らなかった。当時、亡き祖父資政公が金石書院[35]教えており、辛はもとより院内の優等生であったので、夢を公に質すと、公は言った。「それは黄山谷の[36]で、神が言われたとおり本当に粟を分けて貧民を救うことができ、みずから子を得るのは難しくないだけだ。」辛はそこで蓄えを尽くして援助し[37]このようにすることさらに一年あまり、神を夢みたところ、こう告げられた。「おまえが年来積んだ善行すでに天曹[38]に伝えたから、観音大士は男子をおまえに送るだろう。」数日後、本当に夢みる白衣の人が嬰児を抱いて対岸から来、まさに迎えにゆこうと思い、にわかに大きなウシがに横たわり、白衣の人はすぐに身を翻して去った。怨んで目ざめ、普段牛肉を食べていたからだと悟り、家中誓ってウシを食べることを戒め、後に本当に子を生み、さらに学校に入った。

 

◎潘封翁

 

同安[39]の潘文岩封翁(震承)は、若くして父を失い、家は貧しかったが、商船に乗せてもらって海に浮かび、遭い、漂流して行方も知れなかった。死生をすでに度外に置いたが、家に老母がいることを思い、日夜哀号するばかりであった。一日後、風が突然変わり、数刻のに番禺に泊まった。さらに一日後、乗っていた船がふたたび出発したが、また風に遭い、結局溺れ、(くん)[40]だけが母を恋うてゆかなかったために免れることができた。齎した商品はおりしも騰貴していたので、数倍の利を得たが、人は孝心が感通したと思った。それからは資産は嶺[41]間で冠絶した。広州が飢饉になると、米万石を差し出して救済した。たまたま疫病が大流行すると、棺五十余口を施した。書院[42]および紫陽祠[43]修理し、[44]増し、遠来の学ぶものに供し、他の義挙もそれに匹敵するものが多かった。乾隆年間、金川を勦討[45]するために軍費を援助し、軍功により三品銜に叙せられた享年七十四であった。嘉慶末年、南から葬した。

同安の子は七人、みな朝廷で位にあり、孫には合格するものが多かった。同郷の陳恭甫編修が伝記を作ってやった。

 

◎祝封翁

 

浦城の富んで礼を好む家としては、第一に祝家が挙げられる。わたしの長子の姻戚で岩太守(昌泰)[46]の継父恕亭翁(封)は、気前がよく、義挙が多かった。県の南浦書院[47]灯油に事欠いていたが、翁は独力で資金援助し今でも士人たちはその恩恵を讃えている。当時、省城の書院の経費も底をついていたので、翁はやはり資金援助したが、両書院の損失は都合数万両を下らなかった。太守の実父和亭翁(乾封)も義挙を好んでいたが、はやくに亡くなった。その後、妻徐太恭人がその志を体し、膳数万両を差し出して全城を修復し[48]志を刊刻したが、すべて祖父の舫尚書がその完成を監督した。大官が朝廷に伝えてやったので、今わが福建の志乗[49]はみなかれの事跡を載せている。太守の季父亭翁(封)はもっとも財を軽んじ、義を重んじ、人のを救い、親戚の中にかれの恩を蒙っていないものはなかった。人のために厄難を排し、紛争を解くことを好み、面識の有無を論ぜず、来て質問するものがいれば、かならず喜んで解説した。近頃、四川から来たものがおり、蜀中某県の城隍だと伝えた。今、浦中の祝氏は子孫が繁盛し、簪纓は絶えないが、その源には由来があるのである。同じ頃、季子駿明経(新元)[50]というものがおり、善を楽しみ、施しを好み、郷党に敬服せられていた。道光四年、県は凶作であったが、つねにみずから数千両を袋に入れ、省にいって米を買い、浦に戻ると値引きして売り出し、助かるものはたいへん多かった。近頃、かれが広東大埔県の城隍にもなったと聞いた。季と祝は[51]であり、駿も家大人と親しかったので、ならびに録した。

 

解元

 

浦城[52]陟庵孝廉()は、先祖の墓江山の黄家に占領され、棺を倒され、骸を棄てられていた。一族の子や孫たちは府に訴えたが、府知事の某は黄の賄賂を受けていたので、張を脅し、無実の罪を認めさせようとした。張は頑として従わず、拷問を受け、腿を夾まれ、昏倒するに至って悔いなかった。おりしも辛酉の郷試で張は省城に赴いて受験することを求めた。府知事は承知しなかったので、人に頼み、再三求めさせると、しぶしぶ従って言った。「かれが省にいって解元になるのを見よう[53]。」その試験で、わが福建の主考[54]姚文僖公[55]で、八月の末になっても、まだ解元は決まらなかった[56]。ある日、眠っていると、堂の前で履声(くつおと)が橐橐[57]とし、さらに嘆く声が起こったので、後をつけたが、実際には人はいなかった。その時、同考官[58]たちがみな衣を着て起きてきたので、それぞれ落第答案を再調査するように命じたところ同考官の丁が言った。「つつしんで申し上げます[59]。今晩、夢みましたところ、人がその印を盗みましたので[60]心の中でたいへん嫌に思いました。」丁は答案を閲するたびに、合格させるものには、かならず「道心惟微(だうしんこれびなり)[61]」の小印を用いてしるしにしていたのであった。たまたま張の答案を得たが、文の中に、「道心惟微」の言葉があったので大声で笑って言った。「これは印を盗んだしるしでしょうか。」いそいでそれを姚に薦め、広げて見ると、すぐに激賞した。まず張の答案を別の紙にし、あまねく仲間に示して言った。「これはわたしの擬作ですが、皆さまが正されますことを求めます。」仲間たちは言った。「このような精理[62]名言を得れば、本当に首席合格するに堪えよう。」姚はそこで袖の中の張の答案を出して示し、即日首席とした。合格発表の後、府知事[63]は故あって免職されて去り、訴えも正しく裁かれた。そこで浦中[64]の人々はみな孝子と称した。まもなくのいとこ(夢魁)、の子(廷書)は相次いで郷試に合格し、みなその日ともに法廷威嚇を受けたものであった。この事は姚文僖公がの封翁のために寿序を作ったときに言及したことで、夢魁・廷書はいずれも南浦書院[65]教えを家大人に受けたものなので、このようにその詳細を聞けたのであった。

 

◎字を書いた紙を惜しんですぐに報いられること

 

わたしは侍して[66]浦城[67]にいた時、字を書いた紙を大事にすることを呼びかけていた。拾ったり焼いたりする諸々の煩瑣な仕事は、すべて陳蓮航茂才(洛)がつとめて担い、日々紙拾いの傭工[68]接し、煩わしいのを憚らなかった。航はもともと福州におり、その子を連れて浦城で勉強を教えていた。ある日、その子は狂疾を得、跳ねて外に出、夜に倀倀[69]として歩き、路鬼に弄ばれそうになった。字を書いた紙を拾う傭工がもともとかれを知っており、その時、夜はすでに更けていたので、助けて山道院[70]に入らせ、人を遣わし、に知らせた。早朝に連れ帰ると、病もその後治った。その日、探すものはみな城外の溪谷の注力しており、かれが近い市場にいることを知らなかったので、この傭工に逢わなければ、その夜すぐに災難があったろうし、この傭工が航父子と馴染みでなければ、やはりすぐにかれを引いて帰らせたとは限らなかった。みなは言った。「これは字を書いた紙を大切にした功だ。事を始めたばかりでその報いを得るものがいるのは、励みになる。」思うに、惜字局に司事[71]で孟姓のものがおり、その人は今まで勉強せず、字を書いた紙を大事にすることだけを知っており、みずから言うには、十歳ばかりの時に道々拾い取り、これを楽しんで倦むことがなかった。毎年、拾った字を書いた紙中からはかならず得るものがあった。あるときは銀銭、あるときは髪飾りで、数多くなくても貧しい家にとっては、かならずわずかな足しになった。ある年、小除[72]の日に、その年の総決算をしたところ[73]、得たものはなかったが、何とも思わなかった。翌日の除夜、家で掃除した紙屑道に沿って積まれていたので、孟が根気よく拾うと、本当に字を書いた紙あり、持ち帰って詳しく見れば、中に票一枚あり、「五千文」と記載してあった

 

◎某秀才

 

浦城の某生員は、たいへん文名があり、も秀麗で、さらに性命の学に詳しく、風采は淡雅、言葉は流暢だったので、前の県令周廷(虎拝)[74]優待していた。周の政治は猛々しさを貴び、士人への待遇はたいへん厳しかったが、某生員とだけは親しく、出入りを禁じなかった。言うことはしばしば従われていたので、全県民はかれを正視しようとしなかった[75]さらに某富豪と親しかった。某生員の父はもともと名望のある人で、某翁はその門下に教えを受けたことがあり、近頃さらに某生員を招き、その二子を教えさせたので、情誼はもっとも厚く、表向きのことでは某生員の言葉だけを聴き、田地の引き渡しは、すべて某生員に管理を委ねていた。某生員は家がもともと赤貧であったが、ここに至ってだんだん豊かになったので、蜚語もしだいに起こったが、某翁は聞いても咎めなかった。その後、横領事実が日に日に明らかになってきたので、某生員は落ち着かず、塾の教師を辞め、さらに家を遠郷に移し、非難を避けた。貯蓄はすでに多かったので、家の近くに質屋を開いたが、なおも某翁に手紙を送り、援助を求めると、某翁は気前よく千両を贈った。まもなく、病んで亡くなったが、臨終のなおも手書を某の妻に託し、某翁の家に持ってゆかせ、葬式代の援助を求めさせたが、言葉には含みがあった[76]。某翁はやはり三百両をかれに贈った。それから両家は交際せず、某生員が某翁を裏切ったという話は人口に広まった。翌年、開いていた質屋突然火災に遭い、延焼して住居に及び、すべて灰燼に帰した。数人の子たちはいずれも才能がなく、衰微して自活するすべがなくなるに至った。その妻はまもなく自縊したが、一日前、人に告げた。「わたしは昨晩、夢みてある役所にゆきましたが、見ますと夫が裸、ざんばら髪で庭の隅に跪いており、どうしてここに来たかと尋ねますと、言いました。『生前おこなった様々な罪悪が、今になってすべて露顕した。もう何も言うことはない。』。」全県の人々はみな報応の明らかであること、これに勝るものはないと言った。ある人がさらに言うには、某生員は城外に住んでいた時、とりわけ、求めない利はなかった[77]。親しくしている某監生は、家に余裕の財貨があり、その相はかならず貴くなるものであることを自負して某生員に、星命をそれを合わせるように頼んだ[78]某生員がかならず貴くなるわけを尋ねれば、言った。「わたしは陰相[79]があり、陰嚢に黒い痣があるが[80]、これはよその人が知らないことだ。」某生員はそこで私通している隣家の女房に話し、隣家の女房に頼み、監生と旧交があり、今は貧しくて食べるものがなく、監生に頼って妾となることを願うと公言させた。監生は愕然としたが、かねてから顔を知らないのだから、誣告することはできまいと思った。すると陰部の痣を証拠にしたので、監生は言葉に詰まった。某生員はそこで出ていって調停してやり、六百両を隣家の女房に与えさせ、某生員はひそかにその半分を分けた。監生はすぐに話を漏らしたことに気づき、絶交した。某生員はみずから星占いしたことがあり、六十二歳で血疾[81]のために死ぬと言っていたが、五十でにわかに血淋[82]を患って亡くなった。多くの不義を行ったため、ひそかにかれの寿命が奪われでもしたものか。

 

◎棘[83]幽鬼に遭うこと

 

孟瓶庵先生が言うには、わたしの郷里の乾隆己亥[84]郷試の[85]三つの怪しいことがあった。一人は、首場で答案を提出しおわると突然発狂して闈を出、市中に入り、人に会うとかならず鬱々としていた。もう一人は、答案を受けとって号舎に入ると、突然狂って叫んだ。「わたしは呈[86]を作り人を攻めたり陥れたりすることに慣れているだけだ。むりにわたしに八股文を作らせてどうする。」もっとも変わっていたのは、推字号[87]の泉州の某生員で、夕方になろうとすると大声で叫び、疾駆して号舎を出、号軍[88]四五人が引きとめたが捕まらず、ひたすら叫んだ。「おまえを探して五年、今はじめておまえに会えた。よそへゆくことはできないぞ。」まもなく庭に走り出たので、監臨[89]水を掛けてやるように命じると、元通りになった。その後、跳びあがって抑えられなくなったので、縛って門の中で見守った。門が開くと、[90]の官[91]に移した。目は直視しその両手は、幽鬼と闘ったため、すっかり腫れていた。わたしの息子と隣の号舎のものはみずからそれを見、帰るとそれをわたしに告げ、さらに言った。「大人の旧稿の中に『癸酉筆記』はございませんか。」わたしは言った。「二十余年を経て、すでに失われました。」そこで思いだしたのだが、癸酉[92]の第二場で、わたしも推字号に坐し、号舎に入り、号軍とたまたま語り、すこし怪しんだ。翌日、出ようとすると、号軍は言った。「昨日、官人にお告げしようとしましたが、驚き怖がられることを恐れておりました。首場で、よその州の人が、すでに答案を書き上げていましたが、突然、机に拠ち、答案を並べ、危坐[93]して校閲する動作をしているかのようにしました。某はかれの神色がおかしいのを見ますと言いました。『答案はすでに書きあげたのですから、出られますよ。』しかし答えず、濃い墨でみずからその文に圈点を打ちさらに抹消し、ますます怒り、机を打ち壊し、憤然として出てゆきました。駆りたてているものがいるかのようでした。」これは幽鬼が祟りをなしているのでなくて何であろうか。善くないことをするものは、自分のことを、誰にも知られていず、さいわいに刑戮を免れていると思っているが、冥冥の裡に、広い場所で多くの人々に、その報いを示すことになることを知っていないのは、恐ろしいことである。ある人が言うには、慣例では、院の門を開く時、担当者はまず幽鬼を招き入れるので、恩讐の報いはもっとも顕著である。思うに、幽鬼を招く話は、昔からこのように伝えられている。京城の院の明遠楼[94]の四角には、高々と旗を挿してあるが、これも幽鬼を招くために設けられているそうである。しかし、わたしが粤西に随任したとき、家大人は郷試を三度監臨したが、幽鬼を招いたことを聞かなかったから、省にだけはゆかないのであろうか。しかし昔から試験場での果報の事はしばしば見られ、他省とも異ならない。

 

陳衎

 

晋江[95]陳簡湄太常(大が諸生であった時のこと、郷里に陳衎娘という娘がおり、夫が外出して一人でいたが、真夜中ににわかに死んだ。太常は某甲に従わないために脅されていたことを調べだすと、陳衎娘の夫にお上に訴えるなら、訴状を書いてやようと言った。その夫は懦弱で、証人がいなかったので実行できなかった。さらに衎娘の実家に語れば、すでに某甲の賄賂を受けていた。太常はしばらく激怒し、福州にいって分司[96]の某に告げた。某も事件から時間がたっていたので力になれなかったが、太常の言葉を信じ、「火は烈しく氷は清し」の四字の扁額を書いてその家に送った。ついで甲辰の郷試で受験したところ、首題は「『能く五者を行へば天下に仁を為す。』請問すれば、曰く『恭、、信、敏、恵なり。』と。」[97]であった。太常はもともと豪快で、理[98]作ることを好まなかったので、構想するのにたいへん苦しんだ。一日後、朝起きると、その号舎の簾を掲げるものがおり、一人の人がの襖を着て言った。「わたしは陳衎娘です。」解答用紙を広げるとおもわず文才が沛然[99]とし、その年に合格した。

 

墓を発いて棺を穿つこと

 

近頃、浦城では、墓を発き、棺を穿つ事件がしばしば見られるが、いずれも男の棺を開かず、女の棺を開くのは、女の棺が厚葬であることが多いからである。浦城の風俗では、女を納棺する時、貧家もかならず器の髪飾りを着け、富家金銀宝玉を身に満たす。わたしの長兄後妻が浦城の寓居で歿した時、長兄は家大人を招き含殮[100]を見させたが、平素の家訓守り、金銀の器をすこしも棺に入れていなかった。よその人は笑い話として伝え、このようななのにこのように死人を軽視するとはと言った。家大人はかれの愚かさを憐れみ、そのでたらめを笑い、『厚殮説一首を作り、いささか救済[101]があることを願ったことがあったが、浦城の人で悟るものはなお寥寥たるものであった。聞けば近年、数ヶ月の間に、棺を穿つことが数十件に至ったことが報告されたので、県令某は憤然として言った。「誰がおまえに悪いことをさせてこのことを招いたのだ[102]。」措いて構わなかったので、訴えたものはどうしようもなかった。さらに聞いたが、最近、旧家の子某は、その祖父がいずれも孝廉であったが、某に至って家計は日に日に苦しく、自活するすべがなくなった。かれの母の納棺の時、銀器を棺に入れていたことを思い出し、墓の中に水があるから、改葬するきだと嘘をつき、墓を発き、棺を穿ち、その髪飾り数件を取り、遺骸を手厚く葬ったが、聞くものはみな語るに忍びなかった。まもなく某はにわかに亡くなり、その家は絶えた。ああ。天理が絶えれば、人事もどうして絶えぬことができようか。家大人の『厚殮説』にいう。「客がわたしに尋ねた。『県は盗賊を憂えており、その禍で、棺を壊すより激しいものはないが、毎年、この事件はしばしば起こり、大富豪はもっとも惴惴[103]としている。どうしたらそれを止められよう。』わたしは言った。『礼だけがそれを止められましょう。』ある人はその言葉を迂遠だとしたが、わたしは諭した『死者をかならず納棺するのは、礼です。古字の「」はもともと「」に作りますが、首足を収めることをっているだけです[104]。今『会典』[105]及び『通礼』[106]員の喪礼を載せています。『日を越えて小殮[107]』する際は、三品以上は含に小珠玉五つを用い、七品以上は金玉屑五つを用います[108]。さらに『[109]加ふ』といいますが、『三品以上五称、三、襌二[110]二品以上三称、二、襌一六品以下二称、一、襌一』とあります[111]これを超えれば制度に違反し、礼法に悖っています。そもそも珠玉を小といい、金玉を屑というのですから、取って口に入れるだけであることが知れます。その衣というのは、七品以下まで言っていますが、含は七品以上だけだと称し[112]それ以下は含を用いられないことが知れます。含の用いかたにも決まりがあり、どうして今の金銀が頭を圧し、珠玉が身に纏わりつくことを許しましょうか。聞けば毎年の破壊事件は、すべて女の棺で、男の棺に及ばぬそうですが、それならば、厚葬が盗難を招くことは、やはり彰彰として明らかです。しかし、子がその親を納棺し、父母がその子女を納棺し、家長が卑しく幼いものを納棺する時も、かならず厚くしたほうがよく、薄くしてはならないといいます。これは愛していると言いながら、まさに損なうゆえんなのであり、死者にすこしも利益がなく、死後の災禍を齎すものです。膚を剥ぐ[113]酷さは、子にあっては不孝、父母家長にあっては不仁ですが、その原因を究めれば、礼に合わないことに由来しているだけなので、わたしは「礼だけが止められる。」と言ったのです。そもそも礼に従えば、おのずと形がないうちに災禍を消せますが、礼に従わなければ、その災禍は、不孝不仁に極まってみずからを救うすべがなくなります。だとすれば、仁人孝子は応変の計知らないことができましょうか。』。」思えば家大人は浦城に寓居し、手ずから『停葬説』、『説』『厚殮説』の三篇を撰したが、いずれもこの地の積もり積もった悪習なので、大声で叫ぶのを憚らず、家々が知ることを期したのである。『厚殮説』はもっとも重要で、一家を改心させて一家の禍を免れさせ、一人を改心させて一人の罪を免れさせることだけを望み、懇切に諭す老婆心は、尋常の文字として見るべきものではないので、つつしんでここに附録するのである。

 

最終更新日:2018222

北東園筆録

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[1]http://www.zdic.net/cd/jd/12/ZdicE9ZdicBCZdic8E54925.htm状元眼、探花の称。

[2]http://baike.baidu.com/view/922425.htm

[3]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%99%E6%99%89

[4]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%90%B3%E6%96%87%E7%85%A5

[5]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E6%9E%9D%E6%98%A5

[6]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE6Zdic8BZdicAD150090.htm

[7]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%A9%E5%9F%8E%E5%B8%82

[8]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E6%9D%B0_(%E6%B8%85%E6%9C%9D)

[9]http://www.zdic.net/c/e/b/18999.htm翰林院の属官。

[10]http://zh.wikipedia.org/wiki/1809%E5%B9%B4

[11]http://www.zdic.net/c/1/143/314147.htm孫が顕貴であることにより封典を受けた人。

[12]http://www.zdic.net/c/7/70/111576.htm擬音語。音の軽く細いことを形容する。多くは虫の鳴く声を指す。

[13]原文「發祥流慶」。『後漢書』班彪列傳「然猶於穆猗那、翕純t繹、以崇嚴祖考、殷薦宗祀配帝、發祥流慶、對越天地者、奕乎千載克自神明哉

[14]http://baike.baidu.com/view/1033918.htm

[15]http://baike.baidu.com/view/1649389.htm

[16]http://baike.baidu.com/view/3432816.htm恩人の福寿を祈るための位牌。

[17]http://www.zdic.net/c/9/94/168324.htm恩人への敬称

[18]http://www.zdic.net/c/6/9a/176070.htm祖先を祀る堂。

[19]http://baike.baidu.com/view/8508448.htm道光二十三年(1843年)から光禄寺卿。

[20]http://www.zdic.net/c/c/1C/43492.htm人が会試を受験すること

[21]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%8D%E6%B5%A6%E9%95%87

[22]http://www.zdic.net/c/c/10/25670.htm定期的に京官を査定する制度。吏部が考功清吏司を設け、三年に一度査定し、在京のものは「京察」と称し、外地のものは「大」と称した

[23]http://baike.baidu.com/view/355887.htm#1

[24]http://www.zdic.net/c/0/f6/258022.htm外省にゆき、高職に任ぜられること。

[25]http://www.zdic.net/c/e/e2/226458.htm百人を率する小目。

[26]http://www.zdic.net/c/1/101/272925.htm紙幣

[27]http://www.zdic.net/c/3/a1/187847.htm米舂き工場。

[28]http://www.zdic.net/c/a/92/162511.htm月にした酒

[29]未詳だが、官名であろう。

[30]グーグル検索結果

[31]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E6%B8%B8%E5%8E%BF

[32]http://www.zdic.net/c/f/9a/176483.htm福を享ける運命。

[33]原文同じ。未詳。「屠刀」の誤りか。

[34]漢典に適切な語釈なし。その年に取れた穀物であろう。

[35]http://baike.baidu.com/view/5284712.htm

[36]http://baike.baidu.com/link?url=1WPNGnxTXjpYlmEnH2T3QMQj3POUWUlmmZ0Wsndgj8Oltjo8TODsO9hFQdRaCfkOD5CG4G3Twz_jYkiK3K063_

[37]http://www.zdic.net/c/3/14/30913.htm官府が荒年で食糧が不足した倉庫に蓄えてある糧食を通常価格で売り出すこと。

[38]http://www.zdic.net/c/9/3e/96316.htm道家で天上の官署をいう。

[39]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8C%E5%AE%89%E7%B8%A3

[40]原文同じ。「封翁」は「封君」ともいうのでこうした言い方をしているのであろう。

[41]http://www.zdic.net/c/d/73/118909.htm両広地区。北は五嶺に倚り、南は南海に臨んでいるのでかくいう

[42]http://baike.baidu.com/view/1151151.htm#6 

[43]http://baike.baidu.com/view/1151151.htm#8 

[44]http://www.zdic.net/c/0/25/58780.htm食費として給せられる金のことであろう。

[45]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B0%8F%E9%87%91%E5%B7%9D%E4%B9%8B%E5%BD%B9

[46]http://baike.baidu.com/view/6670528.htm

[47]http://baike.baidu.com/view/4659266.htm

[48]原文「捐膳數萬金修複全城」。「膳」はまったく未詳。「修複全城」も未詳。

[49]http://www.zdic.net/c/7/94/168005.htmhttp://www.zdic.net/c/7/97/170488.htm地方の疆域沿革、典章、山川古迹、人物、物俗等を記載した

[50]未詳

[51]http://www.zdic.net/c/6/3/7156.htm数代にわたって戚関係があること。

[52]http://baike.baidu.com/view/190726.htm?fromtitle=%E6%B5%A6%E5%9F%8E&fromid=2675677&type=syn

[53]原文「看他到省中解元去。」。未詳。とりあえずこう訳す。

[54]http://www.zdic.net/c/b/4/8766.htm主考官

[55]http://baike.baidu.com/view/991591.htm

[56]原文「尚未得元」。「得元」が未詳。とりあえずこう訳す。

[57]http://www.zdic.net/c/0/158/347437.htm「槖槖」とも。擬音語。硬い物が連続してぶつかる音を表す。

[58]http://www.zdic.net/c/c/14b/327807.htmク試、会で主考、裁と協同して答案を見る

[59]原文「恭者」。未詳。とりあえずこう訳す。

[60]原文「是夜夢有人其印」。未詳。とりあえずこう訳す。指示詞の使い方がおかしい。ここは直接話法なのだから「其」ではなく「我」などにするべきであろう。

[61]『尚書•大禹道心は天理。天理は微妙なものであること。

[62]http://www.zdic.net/c/e/e1/224887.htm精微理。

[63]http://www.zdic.net/c/1/1c/44458.htm知府

[64]http://baike.baidu.com/view/190726.htm?fromtitle=%E6%B5%A6%E5%9F%8E&fromid=2675677&type=syn

[65]http://baike.baidu.com/view/4659266.htm

[66]父に侍して。

[67]http://baike.baidu.com/view/190726.htmこちらに梁章鉅が掌浦城浦南書院講席」とある。

[68]http://www.zdic.net/c/3/e/20668.htm雇われて人のために仕事する人

[69]http://www.zdic.net/c/5/6b/103629.htmゆくあてがないさま

[70]グーグル検索結果

[71]http://www.zdic.net/c/8/39/89363.htm官署の低級員。

[72]http://www.zdic.net/c/f/148/320151.htm小除夕http://www.zdic.net/c/f/148/320152.htm除夕の一日前。

[73]http://www.zdic.net/c/8/10f/294321.htm原文「合計本年」。未詳。とりあえずこう訳す。

[74]未詳

[75]原文「合邑為之側目」。「側目」は正視せぬことで、畏怖の動作。

[76]原文「彌留之際、尚以手囑付某妻持往某翁家求助喪費、語有所挾」。この文章は分かりにくい。「以手囑付」「持往某翁家」「語有所挾」が未詳。おそらく「以手囑付」は脱字があり、「以手囑付」ということであろう。そう解すると、「持往某翁家」は辻褄が合う。

[77]「とりわけ貪欲であった。」ということ。

[78]原文「自負其相必貴而囑某生以星命合之」。「囑某生以星命合之」が未詳。とりあえずこう訳す。

[79]未詳だが、文脈からして陰部に現れている相であろう。

[80]「陰嚢に黒い痣がある」と貴くなるという迷信の典拠は未詳。

[81]http://www.zdic.net/c/0/e6/231274.htm下血、吐血、喀血等出血する疾病。

[82]http://baike.baidu.com/view/1354700.htm血尿

[83]http://www.zdic.net/c/8/85/144492.htmhttp://www.zdic.net/c/8/10a/288673.htm試験場。

[84]http://zh.wikipedia.org/wiki/1779%E5%B9%B4

[85]頭場に同じであろう。ク試あるいは会の第一次試験。首、初とも称する。試験でク試、会試はそれぞれ三場に分かれていた

[86]http://www.zdic.net/c/8/71/112437.htmhttp://www.zdic.net/c/8/71/112429.htm呈文。申告の文辞。

[87]科挙の答案を書く独房は号舎といい、号舎の列は番号の代わりに千字文によって「×字号」と名づけられている。

[88]http://www.zdic.net/c/7/a1/188482.htm試験場に置かれた監視

[89]http://www.zdic.net/c/1/151/335531.htm郷試考官。

[90]http://www.zdic.net/c/1/31/77853.htmク試あるいは会の試験場。

[91]原文同じ。未詳。試験官がいる場所をいうか。

[92]http://zh.wikipedia.org/wiki/1813%E5%B9%B4

[93]http://www.zdic.net/c/1/14c/328340.htm身を正して坐すること。

[94]http://www.zdic.net/c/e/110/297876.htmに設けられた高楼。試験の、巡察官がここで試験場を監視し、不正を防いだ画像検索結果 

[95]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%99%8B%E6%B1%9F%E5%B8%82#.E6.AD.B7.E5.8F.B2

[96]http://www.zdic.net/c/6/11/27286.htm運司の下に設けられた塩務を管理する官

[97]『論語』陽貨。

[98]未詳。哲学的な問題をいうか。グーグル検索結果 

[99]http://www.zdic.net/cd/jd/7/ZdicE6ZdicB2Zdic9B281.htmんなさま

[100]http://www.zdic.net/c/b/1d/44811.htm「含」とも。「含歛」とも。礼で、珠玉米等を死者の口に納め、衣衾を易え、その後棺中に入れること

[101]http://www.zdic.net/c/d/14b/328047.htmあるいは不利から救うこと

[102]原文「誰叫汝作孽以致此乎」。未詳。とりあえずこう訳す。「おまえが悪いことをしたから墓を暴かれたのだろう。」という方向であろう。

[103]http://www.zdic.net/c/4/9e/181534.htm懼戒慎のさま。

[104]原文「取斂首足形而已」。未詳。とりあえずこう訳す。ただ、「首足を収めることを象っている」としている根拠は未詳。なお、「首足」はここでは遺骸のことであろう。漢典に適当な語釈なし。

[105]『大清會典』と思われるが未詳。

[106]定大清通礼と思われるが未詳。http://ctext.org/searchbooks.pl?if=gb&searchu=%E6%AC%BD%E5%AE%9A%E5%A4%A7%E6%B8%85%E9%80%9A%E7%A6%AE

[107]http://www.zdic.net/c/f/37/85203.htm斂とも。http://www.zdic.net/c/f/110/296347.htm死者に沐浴、穿衣、覆衾等を施すこと。なお、この部分は引用句と思われるが、『欽定大清會典』にこの文なし。『定大清通礼』は未確認。

[108]原文「越日小殮、三品以上含用小珠玉五、七品以上用金玉屑五。」。これとほぼ同じ文が『清史稿』品官喪禮に見える。『北東園筆録』の「金玉屑」は「金木屑」の誤り。

[109]http://www.zdic.net/c/3/163/362894.htm納棺の時、死人に着せ

[110]「複」はあわせ「襌」はひとえ。

[111]原文「三品以上五稱、複三襌二、二品以上三稱、複二襌一、六品以下二稱、複一襌一。」。これとほぼ同じ文が『清史稿』品官喪禮に見える。『北東園筆録』に「二品」とあるのは「五品」の誤り。

[112]http://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=687098&searchu=%E4%B8%83%E5%93%81%E4%BB%A5%E4%B8%8A

[113]http://www.zdic.net/c/5/70/110466.htm禍がすでにその身に迫ること。

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