●巻二
◎銭南園侍御
銭南園先生(灃)[1]は剛直で名声があり、御史のようであった。軍機章京[2]になった時、和珅が軍機を司っており、しばしばかれを陥れたが屈しなかった。銭は山東巡撫国泰[3]のことを賄賂が盛行し、汚職が明白であると弾劾した。上は和珅にいそいで調べにいって懲らすように命じたが、和と国はもともと結託しており、その事を子虚[4]としようとし、銭といっしょにゆくことを奏請した。おりしも冬であったので、道々温かい裘を贈り、珍味を贈り、およそ銭を喜ばせられるもので、さまざまな贈り物をしたが、銭は動かされなかった。済南にゆくと、人々の証言は確かであったので、事実に基づいて奏覆[5]せざるをえなかった。和はますます怨んだ。銭がすぐに地方に出て湖南監司[6]になると、和はひそかに本省の大官に頼んで銭の悪事を媒介醸成させようとしたが、しばらくしても、機会を掴めなかった。結局、浦霖[7]が巡撫となり、やはり銭と合わなかったので、塩務[8]の賄賂にこじつけて事件とし[9]、職を奪った。銭は京師で亡くなったので、棺は南へ帰るために出発したが、柴市[10]を通ったときは、まさに浦霖が護送されて処刑された時であり、霊轝[11]は囚車とすれあって過ぎ、結局、あらかじめその時を定めて巧みに先生にみずから見させたかのようであったので、銭の友人はその事を書に記録した。
◎徐総戎[12]
東粤[13]の徐星溪総戎(慶超)[14]は、虎頭燕頷[15]で、万夫を辟易させていたが、詩礼を学び、意外にも儒将[16]であった。乾隆甲寅[17]に郷試に合格したので、家大人と文武同年の誼がたいへん篤かった。擘窠書[18]に巧みで、名山にゆくと、かならず磨崖に大きな字を書いた。『滌研図画巻』があり、名流の題詠はほとんどあまねかったが、外出するたびにかならずそれを持ち歩いていた。ただ、性来イヌ肉を嗜み、厨房では毎日イヌを調理し、常人がニワトリや豚に満腹するかのようにしており、通るとかならずイヌたちが吠えるのであった。建寧鎮[19]で役人をしていた時、巡察して崇安[20]に至り、武夷山に登った。ちょうど日が暮れたので、九曲[21]の舟中に泊まり、営弁[22]がイヌを殺して供し、酒を取り寄せ、おおいに食べた。翌日、天遊観[23]に登り、殿門に入ると、一筋の金光を見るなり、地に倒れて語らなかった。下役たちが助け起こせば、全身が萎えて骨がないもののようであった。見ると、すでに息絶えていた。観の道士蔡元瑩が言った。「これは座上の王霊官[24]が威力を示したのです。およそイヌ肉を食べるものは、昔からこの殿に入ろうとしません。大官さまでございますので、阻もうとしなかっただけでございます。」旧い言い伝えでは、王霊官に鞭うたれたものは、全身の骨節がすべて砕けるというが、これを見ると本当である。
◎孽海
家大人が江蘇で布政使をしていた時、石琢堂先生(韞玉)[25]が紫陽書院[26]の講席[27]を司っていたが、つねに役所に入って宴会していたので、わたしは衝立の後ろから窺うことができた。年は八十に近かったが、精神は矍鑠とし、健啖豪飲し、いつでも五十ばかりの人のようであった。呉人が盛んに伝えるには、かれが諸生であった時、家に紙の庫を設け、「孽海」と称し、人の心を損なう淫詞艶曲、名教を害する書を見ると、すべてその中に収めて焼き、歴歴[28]として数十年倦まなかった。そもそも字を書いた紙を大事にするだけではなかったのであった。乾隆庚戌[29]に、会魁で臚唱[30]の第一番となり、すぐにわが福建を典試[31]し、その後、湖南学政となり、官職を歴任して山東按察使に至ったのも、報いが違わないものといえた。民間にゆくとさらに伝えているが、かれがたまたま葉紹翁[32]の『四朝聞見録』[33]を閲したところ、中に朱文公[34]を弾劾する疏があったので、怒りに堪えず、机を打ち、大声で叫び、この書をすべて買い、火に付そうとしたそうである。そして夫人に相談し、嫁入り道具の金銀宝石などさまざまな物を借り、質屋で金に換え、あまねく書肆を捜索し、三百四十余部を得、すべて孽海の中で焼いたというが、それは話が真実を失っているのを免れない。思うにこの事は沈桐威[35]の『諧鐸』[36]にも見えるが[37]、沈もそうする必要はないと弁じている。そもそも載せた上奏文の草稿は胡紘[38]・沈継祖[39]が作ったものであり、この書を作ったものと何の関わりがあろう。小人が君子を汚すことが、どうしてできないことがあろう。偽学と思えば、加えられない罪はなく、それを明らかにするのは、まさに人の惑いを解くゆえんであり、この書を憂えるに足りない。『四庫提要』が称するには、紹翁と真徳秀はいずれも朱子の門に遊び、その学は朱子だけを宗としているので、論は多くは公平であった。さらに言うには、南渡以後、諸々の野史で史伝の缺を補うに足りるものは、李心伝[40]の『建炎以来朝野雑記』[41]および紹翁のこの録だけなので、やはりたいへんその書を重んじていた。それに、書中に載せる諡議[42]二則は、朱子を表彰することに大いにつとめ、まったく異常な言葉はないから、この書もどうして軽々しく焼くことができよう。琢堂先生は少壮の時、意気旺盛で軽率であったことは、あったかもしれない。「名教を扶翼する」ということは、このようなことではないはずである。それに、蘇州城中で、一時期、書肆に、どうしてかれが探し、美談にすることができるような、三百四十余部の『四朝聞見録』があろうか。聞けば家大人[43]はこのことを先生に直接質したことがあったが、先生も笑って認めなかったということであった。
◎陰隲文を信じること
家大人が儀曹で政務を執っていた時[44]、歙県の程澄江先生(世醇)[45]と同僚であった。先生は科挙に合格するのがもっともはやく、乾隆己亥[46]に大興の朱文正公[47]とともにわが福建で典試したことがあった[48]。亡き外祖鄭蘇年[49]先生はかれの門下から出たので、家大人ともっとも親しかった。旧事を語ることを好み、みずから述べた。「乾隆己酉に、陳修撰[50](初哲)[51]とともに陝西を典試した時、二十五の答案を選び、陳に送り、審査させた。その中で×号の答案は誤りがたいへん多かったので、陳はそれを除き、答案を補欠に取るのに備えようとした。すると突然、幽鬼の声が四方に起こり、おもむろに窓の外に来てながく吠え、その後、部屋に入り、嘲笑し、夜明けまで騒いで去った。陳は考院[52]にながらく人がいなかったので、狐が祟りをなしたかと疑い、怪しいとも思わなかった。わたしを訪ね、採否を相談した時、わたしはおもわず心が動き、陳に言った。『思えば先君子[53]は文場[54]で白髪頭となったが、三度合格し、いずれも正副の主司[55]の意見が合わなかったために落第した。今のことによって昔を追憶し、おもわず悲しくなった。この答案の瑕疵は、わたしも見ているが、その採否に関してはもとより定見がなく、わたしはそのことに思い及べば、情を抑えられぬから、特別に採用すしてよいかもしれない。』陳はつとめて求めに従った。合格発表後、会いに来たのは、村学究の祝振声であった。わたしは陳にそのわけをくわしく語り、どんな陰隲があるかを尋ねると、祝がみずから述べるには、春夏は農業に務め、秋冬は教え、陰隲を行う暇がないばかりでなく、何が陰隲であるかも知らないということであった。つよく尋ねると、言った。『幼くして文昌陰隲文[56]を教えられ、二十八歳の時から、毎朝口を漱ぎ、香を焚き、拝読してきました。今は五十八歳で、すでに三十年行い、倦むことはございません。平生このことがあるだけで、他は知りません。』わたしは言った。『読めるなら、行うことができ、それだけでもすでに陰隲だ。』翌年、公車[57]で都にゆくと、その人柄は素朴で、吶吶として出まかせではないようであったから、その言葉は嘘ではなかろう。」
◎孝子に子孫があること
蘇州の徐少鶴侍郎(頗)[58]の封翁蘭石先生[59]はもともと江南の名士で、性質はもっとも篤孝で、中年になっても孝行してやまなかった。母が病むと、湯薬を奉り、衣帯を解かず、病が革まると、哭いてなすすべがなかった。自分の年を減らして母の寿命を増すことだけを願い、指を刺して血疏[60]を書き、竈神の前で焼き、上達することを求めた。母の病はにわかに治ったが、先生はついで歿し、年はわずか五十であった。人は孝子の長命でないことを悲しんでいたが、まもなく、少鶴が嘉慶甲子の郷試に合格し、乙丑に連捷して進士になり、榜眼に及第し、官は内閣学士兼礼部侍郎に至った。そこで孝子が長命でなかったのは、天がその志を叶えたこと、至性が感じて報いがすぐに従ったことを知った。言い伝えでは江南の甲子の試験場で、監試[61]の張古余(敦仁)が夢みたところ、古の衣冠の人が告げた。「今回の試験に山東の答案があるが、おまえが合格させねばならぬ。」張は、監試は答案を閲するものではないし、山東の答案なのだから、どうして江南に来られようと思った。本当にそのようなことはあるまいと思った。翌日、同考の某知事がある答案を薦めると、主司はその博識を褒め、採用した。某知事は答案で引用している故実は多くが経伝にしばしば見られる言葉でないことを訝っていたが、ちょうど張が登庁していっしょに見、やはりその博学を喜び、逐一典故を示してやったので、合格と決まった。合格発表になると、少鶴であったが、某知事は山東の人であった。
◎ウシを借りて贖うのを待つこと
呉門の董个亭封翁[62]は、琴南観察(国華)[63]の父であった。観察は家大人と旧交があり、昔宣南詩社[64]の旧友でもあった。後に家大人は江蘇で役人となり、また、しばしば観察に従って民間の歌謡を集め、風俗を尋ね、しきりに交際していたので、かれの家系が善行を積んでおり、郷里の人に称えられていることをよく知っていた。以前、凶作で、農夫に年越しする力がなく、耕牛を肉屋に売っているのを見、義行を呼びかけ、紳士を迎え、資金を集め、城外に牧場を開き、売り値で、ウシを買って牧した。春の耕作の時になると、元の持ち主が受けもどすに任せた。毎年ウシを救うことは数えきれなかった。観察はすぐに進士になり、翰林に入り、御史に転じ、府知事・監司になった。次男(国琛)も合格し、人々はみな封翁がこの善い報いを得て当然だと言った。思うに道光癸未、江蘇は洪水飢饉であったが、わたしの郷里の林少穆先生[65]がおりしも廉訪となっており、やはり冬にウシを買い、春に贖わせ、翌年の農作業はそのために助けられたので、遠近の人々は讃えた。その法は董氏に倣ったということであった。
◎関廟の籤の兆し
陶文毅公[66]が言ったことがあった。湖南巡撫の某は、普段関帝を信奉し、元旦のたびに、まず関廟に赴き、香を焚き、籤を引き、本年の吉凶を尋ねていたが、かならず験があった。ある年の元旦、籤を引いたところ、「十八灘頭君に説く[67]」の句を得たので、用心していた。その年は、浅い水、穏やかな流れにあっても、かならず舟を棄てて轎に乗った。秋、侯七[68]の一件で、星使[69]が按臨し、舟でゆこうとしたが、某は可とせず、関廟の籤の言葉を告げた。星使はしぶしぶ従ったが、心のなかでは喜ばなかった。まもなく、貴州鉛廠[70]の事件が起こり、某が収賄した事件があり、某は罪を認めなかったが、門番の李奴はかならず主人を関わりあいにしようとした。当時、李はすでに刑を受け、両足は萎えていた。主従が言い争ってやまないでいると、星使は声を荒らげて言った。「十八灘頭のお御籤の験がございましたな。李の字は、十八で、地に萎えるのは、灘です[71]。供述によれば、この銀は主人に贈られたのですから、あなたに贈られたのです。関帝はつとにこの災難があることをご存じだったのに、何を弁明なさる。」某ははじめて悚然として罪を認め、事件は決着した。某はわたしの郷里の大官で、たいへん有能であるとの名声があったが、惜しむらくは利を貪っていた。わたしはなおその人を見ることができた。
◎循吏が報いを得ること
桂林の龍雨川(光旬)は、孝廉から湖南知県になり、民を愛すること子のようで、循吏として大きな名声があった。大府[72]はかれが清廉有能であることを聞き、つよく推挙したので、今はすでに他省に抜擢されていた。その子翰臣(啓瑞)[73]は、甲午[74]の孝廉で、正直謹厳、平生もっとも義を重んじ、財を軽んじ、親戚友人を助け、惜しむ色がなかった。同郷の閔鶴雛孝廉がかれを讃えたことがあり、わたしに言った。「近年の交遊で、この一人物を得た。」庚子[75]の礼闈の合格発表で、わたしは鶴雛、翰臣といっしょに落第した。翌日、翰臣は鶴雛を介してわたしを訪ねたが、一見してすぐにかれが凡人でないことが分かった。そもそも温柔敦厚で、君子であった。数日後、わたしは都を出、翰臣は都に留まった。辛丑[76]になって入京し、翰臣を内城に訪ねたが、その後、交際はだんだんと密になった。心のなかでかれの人がらに倣おうとしたが、みずから及ばないと感じた。その年、翰臣は中書[77]に合格し、すぐに進士となった。その詩文楷書はもとより優れていたので、人々はみな翰林になることを期待していたが、まもなく、なんと状元となった。その夏、わたしは桂林に帰った。おりしも家大人は転任して江蘇を巡撫していたが、舟が長沙を過ぎると、龍雨川が会いにきた。龍はわたしの家ともともと世誼があったが、そもそもかれの父は家大人といっしょに甲寅[78]の郷試に合格した人であった。話は次のようなことに及んだ。「昨冬、あらたに着任したある県の役所に旧い亭があり、すでに荒廃していたので、俸給を抛って重修した。おりしも県の南に溝渠があり、やはりひさしく塞がれていたが、全県の紳士民衆が匠を集め、浚渫した。竣工すると、役所の亭の工事もちょうど終わった。すると都の名士が告げにきて言った。『古老の言い伝えでは、この溝渠が通じれば、貴州からかならず殿元が出るということです。今、この亭はちょうど同じ日に落成しましたので、『啓瑞』を名としてその縁起を記すことはできましょうか。』。すぐに、公は啓瑞亭の扁額を造り、吉日を選んで懸けた。しかし、息子の啓瑞が状元になった報せがちょうど来た。民間に験があるのではなく県庁に験があったとは、民の父母たるものとしては恥かしくてたまらなかった。」家大人は、これは科挙にまつわる佳話で、記録せぬわけにはゆかないと言ったので、ここに附記した。
◎羅山[79]の冤罪事件
江南河帥[80]の黎襄勤公(世序)[81]が語るには、かれの郷里に田舎の翁がおり、その子は外に出て交易し、嫁を家に残していた。嫁はもともと賢く、日々機織りして、炊事の足しにしていた。翁は坐してそれを享受し、仕事せず、つねに外出しては村人と賭博し、負ければ嫁に償わせるのを、常の習いとしていた、嫁もそれを咎めなかった。ある日、嫁は軽い病で機織りをやめ、翁に語った。「わたしの労力では収入には限りがございます。貧しい食事をやっと助けることならばできますが、賭けをして、負ければ残りがなくなってしまいます。おとうさまは今後すこし賭けをお控えになることができますか。」翁は黙然としていた。その日は微雨であったが、食後、傘を提げてすぐに出、夜になっても帰らなかった。嫁は不安になった。三日帰らかったので、嫁はますます不安になり、隣近所に事情を告げ、かわって探すことを頼んだ。おりしも連日の陰雨で、河はにわかに増水していたが、隣の老婆がきて嫁に告げた。「先ほど河に水死体があり、傍らに破れ傘があったそうですが、調べにいってはどうですか。」嫁がいそいで見にゆけば、六十ばかりの老人で、本当に翁であったので、叫んで気絶しそうになった。見るものは憐れみ、代わりに掬いあげて納棺してやった。おりしも郷里に監生某がおり、冠を被った虎のような者であった。かれは、嫁の家はもとより貧しいが、嫁の実家はたいへん豊かであることを知っていたので、これを口実にして脅迫しようと思い、人々に呼びかけた。「この事はお上に知らせないで済ませることができるのか。」郷里にはこれに応ずるものはいなかった。某はもともと訴訟に慣れていたので、嫁が怨み言をいい、翁に迫って入水させたとお上に訴えた。嫁を捕らえて厳しく訊問すると、嫁は拷問を受けるのに慣れていなかったので、無実の罪を認め、事件は決着した。棄市される日、翁がちょうど外から帰ってきたが、あいかわらず傘を提げていた。道々その嫁が冤罪で殺されそうになっていることを聞き、処刑する場に走っていったが、もはや間にあわなかったので、痛哭して役所に赴き、みずから供述した。県は事実に基づいて調べあげて、監生を処刑し、県知事も官職を奪われた。隣の老婆が夢みたところ、某の嫁が冠帔[82]を着て別れにきたが、すでに神になったと言った。これは家大人が淮海道で役人をしていた時に、公がこのように述べるのを聞いたのである。公は羅山の人で、これを述べた時には、その郷里の数年前の事だとだけ言ったが、疑うらくは羅山県の事件であろう。
◎救助してみずからを救うこと
銭塘の屠琴塢(倬)[83]は文望[84]を負いながら吏才があり、嘉慶戊辰[85]庶常[86]から儀徴に出宰[87]し、役人としての名声はたいへん顕著であった。儀徴から長江を渡って龍潭[88]方面に赴く時、以前は、小舟が突然風に遭い、しばしば沈没していた。屠は着任すると、資金を出して二隻の舟を造り、鎮江の紅船[89]の方式に倣って救助し、渡る人はみなかれに頼っていた。丁丑[90]六月、屠は病と称して辞職するため、金陵に赴いて伺いを立てようとし[91]、この舟に乗った。午後、黄天蕩[92]に至ると、暴風がにわかに起こったが、時にまだ北岸にいたので、すぐに船を泊め、纜を繋ぎ、碇を下ろし、万全だと思っていた。まもなく、雨はますます激しくなり、風浪が打ち、纜は断たれ、舟は漂って河の真ん中の急流の中に出、放たれた矢のようになり、鉄鹿[93]も浮かんだ。水夫やしもべはみな哭き叫び、屠は船室の中に跪き、祈った。「わたしはこの舟を造って人を救っておりますのに、この舟をお沈めになれば、善を勧めるに足らないことでございましょう。神理がございますなら、どうかわたしの舟をお返しください。」祈るのが終わると、突然船頭および車夫[94]五人が大波の中に跳びこみ、なんと断たれた纜を引き、瞬く間に岸に着いたので、また碇を下ろし、舟ははじめて安定した。当時、浪は山より高く、一つの起伏が数丈ほどであったが、水夫は言った。「すこしでも遅ければ、この舟は砕けていました。」尋ねると、五人が称するには、大波に跳びこんだ時には、それぞれ相談していなかった、ぼんやりとして人に助けられているかようであったということであった。そもそも、舟を造って救助することは自分のためにしているのではなかったが、そのことがまさにみずからを救ったもので、本当に、報いは違わぬものである。後に屠は丁憂[95]で本籍に戻り、道光初年に本籍から特旨を奉って九江太守に選ばれた。
◎儀徴[96]の盗難事件
屠琴塢が人に語ったことがあった。「善悪の報いは、影が形に従うようなものだが、人の意表に出ていることもあれば、人の想定の範囲内にあることもある。思えば庚午の冬、儀徴の任地で、湖広へ戻る空の糧船[97]が、瓜州から大江に出、三更に儀徴の地に入り、盗賊に遭った。わたしはその夜のうちに船に赴き、実地調査し、すぐにその船の船頭から手がかりを調べ出し、すぐに船頭の疑わしいもの三人を役所に連れ帰り、取り調べ、主犯従犯八名を捕らえたが、そもそも本船の船頭が結託して招き入れたのであった。儀徴の捕り手はひさしく怠惰であった。わたしは着任した後、資金を出し、日々健児数十人を募り、重要案件に遇えば、手厚い褒美で捕らえさせたが、すべてすぐに解決した。ここに至り、募集したものの中から八人を選び、一人の家丁・一人の捕り手にかれらを率いさせ、範囲を分けず、糧船が過ぎるところは、西は蕪湖[98]、太平[99]に至り、南は蘇州、松江、杭州に至ったが、結局得たものはなかった。その後、方向を変え、北にゆき、はじめは邳州・宿遷・沛県・済寧で、前後して四人を捕らえ、さらに直隷武清[100]で二人を捕らえたが、一人は水に入って逃れ去り、一人が縛られるとすぐに、各糧船の船頭たちが数百人で囲み、むりに犯人を奪おうとした。その時、漕帥[101]許秋崖先生[102]が来、輿を停めて調査し、中軍[103]に命じ、捕縛を助けさせたので、人々ははじめて散じ、省に護送していった。江蘇の按察司は首府[104]を派遣し、首県[105]とともに再審させたが、長洲の某公は、突然『強盗』を改めて『窃盗』にし、供述を改変し、申告しようとした。按察司は巡撫に飛札[106]を送り、巡撫はわたしを省に入らせ、共同で調査させたが、そもそも案件はたいへん重大で、あやまって数人を死罪に問うていた場合、罪人に死刑判決がおりなかった時は、黒龍江行きは免れることができないのであった[107]。家人はみなわたしが公務を処理するのがたいへん拙いことを咎めて言った。『もともと到れる級があり[108]、盗人を捕らえなくても障りありませんでしたのに、今は二年の長きにわたり、数千里を往復して手厚い褒美で捕縛させ、損失は二千余両に達しており、事件が解決しましても、かえって罪を得ることを招いてしまいます。どうなさるのです。』わたしは笑って言った。『人人がわたしのように拙くできるなら、天下は盗人を憂えることはない。後の憂えを心配し、捕縛の費用を惜しめば、誰が国家のために職責を担うのだ。』そして省城に赴き、共同で審理したが、一か月争っても判決しなかった。同僚に、わたしたち二人のために調停するものがおり、言った。『案件を、『はじめは窃盗をするつもりだったが、時に臨んで強盗をおこなった』と改めれば、わたしと長洲知事はいずれも処分がない。そもそも『はじめは窃盗をするつもりだった』とすれば、長洲知事が供述を翻したことには理由があり、数人を死罪から救えるのであった。わたしは翌日すぐにそのことを直接大府[109]に述べ、最初の罪状の判定にゆきすぎがあったことをみずから認めたので、大府はわたしにひとまず任地に戻るように命じた。家人は、案件に疑わしいことがないのなら、どうしてつよく争わないで我慢するのかとわたしをふたたび咎めた。わたしは笑って言った。『以前、盗人は出廷[110]するとすぐに罪を認めたので、盗人として判決したが、これは盗人が法によって死刑にするということである。今、人がどうしてもかれらを生かして処分を避けようとしているのだから、それをどうしても処刑するのは、法によって死刑にするのではなく、心によって死刑にするのだ[111]。法によって死刑にするのは公心だが、心によって死刑にするのは私情だ。『書経』に『罪は疑わしければ軽くせよ[112]。』という。今、わたしは案件を疑っていないが、わたしの心が公私に介していることを疑うので[113]、軽くしたのだ。』一月あまり後、宮中から手紙が来、知ったのだが、按察司が出廷すると、盗人はやはり事実を供述したので、按察司はたいへん驚き、またもとの供述に従って判決したとのことであった。」そもそも大盗は年貢の納め時になり、国法をうまく逃れることができなくなると、出廷した時に実情を供述するのだが、そうさせるものがいるかのようである。罪の重いものが死を免れても、うまく免れることができないことが分かる。そして「法に死ぬ」、「心に死ぬ」の二語を、刑名家がじっくり玩味することをひそかに願う。
◎ペテン師に巧みな報いがあったこと
家大人は瀋陽に随行した時、無錫の顧晴芬侍郎(皋)[114]と帳幄が接していた。公務の余暇に会って話すことができたが、侍郎はその郷里の数年前の物語を述べ、語るには、華姓のものがおり、三百両を持って商品を淮海[115]の地で買おうとした。舟が丹陽[116]を通った時、岸を見ると、重い袋を負った客商が船に乗せてくださいと叫んでおり、たいへん焦っていた。華は憐れみ、船を泊めて待たせた。船頭は手を振った。「この地は悪人がもっとも多うございますので、累を免れれば幸いでございます。」華はつよく待とうとしたので、船頭はやむを得ず、客商を迎えて後ろの船室に泊まらせた。丹徒に着こうとすると、客商は袋を負って出た。「わたしは親戚を訪ねるために来ましたが、今すでに親戚の家に近づきましたので、ゆくことができます。」華に謝して去った。しばらくして、華が箱を開いて衣を取ろうとすると、箱の中の三百両はすべて瓦や石に変わっていたので、客商にこっそり換えられたことを知り、残念がってやまなかった。するとにわかに雨が降って寒くなり、風も逆まき、舟が進めなくなった。華は金はすでに盗まれ、品物を買う資金がないから、家に帰って考えてふたたび計画を立てるにしくはないと思った。そこで船頭を呼んで船を返させ、その代金を決めたが、それは淮[117]にゆく金額と同じであった。水夫は従い、風に任せて帆を揚げて帰った。奔牛鎮[118]を過ぎると、また男が雨を冒して荷物を負いながらずぶぬれで立ち、船に乗せてくださいと叫んでいた。船頭が見ると、銀を盗んだ客商だったので、いそいで船室に潜み、水夫に迎えさせた。その男はもとよりこの船がまた戻ってきたと思っておらず、時間が遅く、雨が激しかったので、急いでおり、待とうともせず、荷物を持ってまず水夫に渡すと、自分は船室に跳びこんだが、華がいたので、たいへん驚き、狂奔して岸に上がり、足を滑らして水に落ちた。人々が篙で突くと、沈んだ。華がその旅嚢を開けば、もともとの銀三百がそっくりまだ残っており、ほかに珍珠百十粒があり、値は数千両ばかりであったので、華はそれから富んだ。
◎孝友[119]の状元
蘇州の呉松甫先生(鐘駿)[120]は、庚寅[121]、辛卯[122]の間に、わたしが江蘇布政使に随任[123]した時、次兄[124]とともに教えを受けた師であった。布政使の役所の書斎はもとより狭く、次兄は師の隣室であったので、わたしは朝晩、筆硯に親しむこと二年あまりであった。かれは度量が大きく、まったく軽率な言葉や粗暴な顔色はなく、集まって語る時は、時折冗談を言うこともあったが、かならず方正であることに拘っていた。平生とりたてて楽しみはなく、書を集めることだけを好み、借金して買うほどであり、平時は手ずから抄写してやめなかった。師はもともと壬午の挙人で、己丑[125]の会試[126]で謄録[127]を得たが[128]、みずから言うには、進士に合格しなければ、将来この途を歩んでいたということであった[129]。人相見がいたので、わたしたち兄弟がひそかに尋ねると、「あなたの先生は、学問がたいへん優れていますが、外貌が揚がらないので、教官を得られるだけかもしれません。」と言った。辛卯[130]の冬、師は会試を受験しようとして北上し、家塾の教師を辞めて出る時、家大人はかれの旅を資金援助した。まもなく、師の兄が年末に物故したが、家に余裕の資金がなく、歳末も迫っており、葬儀を行えなくなりそうになったので、旅費をすべて出して納棺した。家賃を求めるものがすぐに来たため、困窮の境涯で自活するすべがなく、わたしたち兄弟は役所にいて知らなかった。新年、師が役所に入ってきたが、顔色は悲しげであった。わたしたち兄弟は驚き訝り、尋ねてそのわけを知った。師は泫然として言った。「会試の受験はすでに絶望的で、館地[131]もすでに辞し、生計は断たれており、このままでは死んでしまうが、どうしたらよいのだ。」わたしも怏然としていた。当時、亡母の鄭夫人からいささか歳末の賜わりものがあった。俗にいう「お年玉」であったが、わたしたち兄弟は相談し、これでさらにかれを援助した。いっしょに教えを受けたものには、さらにわたしの姑夫[132]邱藜輝[133]、林慶枯[134]両君がおり、それを聞くと、やはり欣然として従い、洋銀を百円集めたので、ゆくことができた。四月二十九日、わが師が状元となった報せを得たが、その事はすぐに外に聞こえ、江蘇では美談とされた。思うに困しんでから亨るのは[135]、理の当然だが、それが影や響きのように敏速であることが、師のようであったものはいない。持っているものを惜しみ、兄を納棺しなければ、ゆけたとしても、合格するとは限らず、合格できても、首席だったとは限らない。甲午[136]に、師は修撰として福建に典試しにゆき、乙未[137]にはさらに湖南を典試し、丁酉[138]には福建で督学[139]し、近頃はすでに大司成[140]から宮・[141]・閣学[142]になり、近頃聞けば、さらに浙江を視学[143]したそうで、天が善人に報いることはまさに絶えることがないのである。
◎李翁の義挙
わたしは桂林に随任[144]し、水部郎[145]の李芸圃先生(秉綬)[146]ともっとも親しく交際していた。芸翁の父君口誠封翁[147]は、もともと江西臨川の人であったが、若い時、きわめて貧しく、除夜に同族の家で借金取りを避けたことがあった。ちょうどその家は正月の供えものをしていたが、その歳盆の温かい火に近づいたところ[148]、奴隷たちに追い払われたので、腹を立て、一つの袱と一つの傘で、粤西で生計を立てようとした。やや利益を得ると、生来任侠であったので、すぐにその持っている物を使い尽くした。後に客商に従い、輾転として交趾にゆき、肉桂を買って帰り、両粤[149]の地で売り、しばしば往復し、八千両を得て帰った。道中、太平郡[150]の某丞に会ったが、もともと親しくしていたものであった。かれの顔色が悲しげであったので、質すと、泫然として言った。「わたしは某県の職務を代行していた時、公務で倉庫の金八千両を流用し、今、新任に暴露され、命を受け、省にゆくのだが、いずれ免職になって訴追せられ[151]、地位生命は保てまい。」翁は言った。「わたしが持っている嚢中の金は、ちょうどその金額に合っているから、持ってゆけ。心配するな。」丞は言った。「今まで苦労してはじめてこれを得られましたのに、手ぶらで帰られるのでは、わたしはどうして心安らかでいられましょう。」翁は言った。「わたしはこの金がなくても、再起を図れるが、あなたはこの金がなければ、身は不測に陥り、言うに忍びぬこととなろう。」結局、金を丞に委ね、疾走して去った。丞は金を得、事は解決した。翁は帰り、改めて猗頓の計を立て[152]、数年足らずで富は一郡に冠絶し、つづけて男子十余人を挙げたが、芸翁はそのもっとも末のものであった。その長孫春湖先生(宗翰)[153]は、若年で進士となり、翰林で官となり、官位は侍郎に至り、わが福建で典試し[154]、浙江を督学[155]したことがあり、儒林の文人たちは、みなかれを仰ぎみた。
◎万近蓬が幽鬼を見ること
張蘭渚[156]侍郎[157]が言った。わたしの郷里に万近蓬(福)[158]というものがおり、杭堇浦[159]太史[160]の弟子で、性来道術を好み、さらに目は鬼神を見ることができた。以前、盂蘭会を設け、別にその師の位牌を作って祭った。招魂すると[161]、某は太史が来たのを見たので、ともに別れた後の事をたいへんくわしく話した。近頃どんな様子かと尋ねると、言った。「わたしはもともと観音大士座下の奇霊童子が転生したもので、本性を失い、おおいに筆舌の過ちを増し、わたしの本来[162]に返れないことを招いた。さいわい他に悪行はなかったので、三途に落ちず、冥界も束縛がなく、なお風が清く月が明るい時に逍遥往来することができるのだ。」万が陳勾山[163]太僕[164]は近頃どうしているかと尋ねると、言った。「あのかたはわたしよりずっと勝れている。あのかたはもともと文昌宮[165]の中の人で、平生善があって悪はなく、穏やかで人に親しみ、人にすこしでも美点があると、話すのをやめず、人の善事を語るのを楽しむ風があり、死後すでに桂宮[166]に帰っている。あのかたのご子孫も、後日貴顕となろう。わたしはどうしてあのかたを望もうとしよう[167]。」思うに袁簡斎[168]の『新斉諧』にもこの事を載せており[169]、袁は杭・陳とともに召された友だから[170]、恣意的に優劣をつけていないはずである[171]。今、数十年を経たが、杭の後裔はきわめて衰微し、太僕の孫香谷(桂生)[172]は位が巡撫に至り、従孫荔香(崇慶)は位が侍郎に至り、その曽孫(憲曽)は近頃やはり翰林に入ったから、万の言葉は嘘でなかった。
◎顧老紹が酒を醸すこと
呉江に顧老紹というものがおり、酒の醸造を生業としていた。ある日、酒甕の中で一匹の赤練蛇[173]が死んでいた。酒がすでに毒され、飲むと人が害せられることは分かっていたが、資金を惜しみ、棄て去ろうとせず、その仲間の厳姓のものと十余甕に分けて貯え、塀の下に置いた。売り出そうとすると、突然、雷が酒甕を撃ち、すべて砕けて一つも残るものがなくなり、人々はみな恙なかった。顧ははじめておおいに悔い、つねに人に向かってこのことを語り、さいわい天誅を逃れたと思った。そもそも酒甕はほかの理由で砕けるはずがないので、赫然と雷で砕き、人が偶然かと疑わないようにさせ、戒め恐れる思いを起こさせたのである。酒は売られず、人は傷われなかった。この人は死なないですんだが、これは事情を知る人をとどめてその事の来歴を明かさせ、さらに、事が行われないうちに一念の不仁がすでに天聴に達していたことをも明らかにしたのである。天心の仁愛、陰律の森厳が、ともに一事に宿っていたのは、珍しいことである。これは十余年前のことで、たいへん近く、確かである。家大人はこのことを黄霽青[174]太守に聞いて、太守はさらに潘寿生(眉)[175]に聞いた。寿生は博学多聞で、『三国志補注』を作ったものであった。家大人はその説をたくさん採って『三国志傍証』の中に入れた。
◎朱酉生が述べた二事
朱酉生孝廉(綬)[176]は家大人の幕中におり、わたしに語った。その友葉某は某学士の役所で答案を閲していたことがあったが、ある答案の文がたいへんよかったのに、葉が手を滑らして半分近くを墨で汚した。学使はそれを見たが、葉に汚されたことを知らなかったので、結局四等にした[177]。葉は学士が葉の粗忽を怒ることを恐れ、やはり弁解してやらず、従っただけであった。後に四等に評定されたものが自縊して死んだことを伝え聞いた。ひそかに探ると、かれの家はたいへん貧しく、生徒を教えて口を糊していたが、四等となった後、生徒がすべて去り、自活できなくなったので、怨み憤って早まった考えを起こしたということが分かった。葉はそれからたいへん悔いた。後におよそ郷試が二度あったが、いずれも見識はあったものの答案を汚損したことによって落とされ、また受験しようとしなかった。つねに人に語った。「これはわたしが無心に罪業を造り、無心に怨恨を結んだものだ。怨恨がこのようであるならば、あの日、一言みずからの罪を認めてあの生員のために取り成すのは簡単だったのに。」さらに言うには、その親戚の管静山、名は英というものは、時文に巧みで、学校で名声があったが、性格はたいへん放誕で、狭斜の遊びをすることを好んでいた。嘉慶丙子科でわたしといっしょに金陵の郷試に赴いたが、三場が終わるとすぐに秦淮の妓館で倒れ、すぐに病を得、わたしより十日遅れてはじめて帰った。病が革まった時、わたしが見舞いにゆくと、慨然として言った。「管英が合格しなければ、能文のものの励みにならず、管英が死ななければ、荒淫のものへの戒めにならなかった。」一日後、合格通知人が本当に来、さらに一日して、絶命した。酉生はこれは静山が自分で言ったことではなく、鬼神が憑いて言わせたのだといった。慧業[178]の文人は選択を弁えることができた。
◎甘粛布政使の役所
甘粛布政使の役所には大堂があったが二堂はなかった。大堂の後ろは大きな庭で、庭の前には大きな庫があった。毎年、西北の各省は新疆に餉銀[179]数百万を支援するが、みな甘粛を通って運ぶので、藩庫の規模の壮大さは各直省に冠絶していた。庫の前にハト数千羽がおり、毎月支庫の中の銀若干をハトを飼う糧としていた。時折深夜にゆえなく庫の門に近づくものがいると、ハトはかならず群がってかれの身に集まり、その顔面を砕いて後におとなしくなるのであった。その産んだ卵が地に落ちることがあったが、みな警戒して拾いとろうとしなかった。言い伝えでは庫を守る神ハトで、いつの年からいるか分からなかった。家大人が着任した後、老庫吏が言葉を聞き、乾隆末年に方伯某が元旦の朝賀にあたり、はやく起きて朝衣朝冠を調え、大きな庭で輿に乗った。おりしも一群のハトの糞がその朝冠および補服[180]を汚したので、すぐに退いて内室にゆき、冠を洗い、衣を換えて出れば、督部がすでに来ていた。方伯は激怒し、役所に帰ると、すぐに銃を求めてハトを撃たせ、傷つけたものは百十羽であった。またその糧をなくし、巣を除き、卵を毀った。数日後、案頭の朱筆がハトに空中に銜えられていって抛たれ、その後、さらにかれの帽頂が銜えられ、客の前に抛たれ、さらにかれの朝珠[181]を銜えて地に散乱させ、最後にかれの印が失われた。ひろく探すこと二日、ハトの巣の中で見つけた。このように騒ぐこと一月余日で、方伯は病んだ。さらに一月後、結局収賄のために破れた。家大人は言った。「そのハトが糞して人を汚したのは、かれが没落しようとしているのを知って戒めたか、かれの衰えた気に乗じて弄んだもので、もとより偶然ではない。それなのに、恐懼反省することを知らないで、動物と仇をなし、どうして勝ることがあろうか。」さらに言った。「このハトはいったりきたりして定まらず、聞けばわたしが着任する前、布政司は伍実生[182]廉訪[183]が兼務していたが、伍が臬署[184]で印を受けとると、ハトはすぐに印に従ってゆき、その藩庫を留守するものは百十羽に過ぎなかったそうだ。わたしが印を受けとる日になると、全部が帰ってきたが、庫を守っていただけでなく印も守っていたのだ。」
道光戊子、癸丑の間[186]、わたしは江蘇の布政司の任地に随侍していた[187]。当時、役所の書記友[188]は、湖州の沈巽帆茂才[189](一咸)で、その族祖沈東甫先生(炳震)の事を述べたことがあった。公が書斎で昼寝し、夢みたところ、青衣のものが中庭に引いていったが、高さ一丈ばかりの鏡が立っており、公を招いてみずから前生を映させれば、方巾[190]朱履[191]で、本朝の衣冠でなかった。驚いていると、さらに三生を照らすことを求めたが、烏紗、紅袍、玉帯、p靴であり、やはり儒者の衣冠ではなかった。しもべが突然入ってきて跪き、叩頭して言った。「老いぼれをまだご記憶でしょうか。以前、公に従い、大同兵備道の任に赴いたものでございます。」文書一冊を呈した。公がそのわけを尋ねると、言った。「公は、前身は明の嘉靖年間にあり、姓は王、名は秀と仰いました。今日、青衣が公を召していますのは、地府の文信王[192]の処で、大同の任地の五百の幽鬼が公を訴えていますので、招いて質問するのでございます。老いぼれは、五百人を殺したのは公の本意ではなかったと記憶しています。この五百人はもともと劉七[193]の事件の敗兵で、投降しました後、ふたたび反しましたので、某総兵はかれらを殺し、後の憂えを絶つことを決心しました。公は直筆の手紙で諌止したことがありましたが、総兵は従いませんでした。老いぼれは公がこの手紙をお忘れになり、弁明しにくくなることを恐れましたので、この草稿を袖に入れ、公に差し上げるのでございます。」公もはっと前世の事を思い出し、何度も慰労した。青衣は求めた。「歩いてゆかれますか。轎に乗られますか。」しもべは怒鳴った。「どうして監司の大官で歩いてゆくものがあろう。」一輿二夫を呼び、たいへん騒がしかった。公を連れてゆくこと数里ばかり、前に宮闕があり、中に王者が坐しており、冕旒[194]に白鬚、傍らの吏は絳衣烏紗、帳簿を持ち、兵備道王秀を呼んで入らせた。王者は言った。「ちょっと待て。これはまず総兵を呼ぶべきだ。」するとすぐに軍装で金甲のものが東厢から入ってきた。公が見ると、本当に某総兵で、昔の同僚であった。いっしょにしばらく問答していたが[195]、言葉は聞き分けられなかった。まもなく公を呼んだので、公が王者に揖して立つと、王者は言った。「劉七の徒党五百人を殺したことを、総兵はすでに認めた。あなたが手紙で諌止したことは、わたしも知っている。しかし明朝の法では、総兵も兵備道の制御を受けるのに、あなたは命令しても従われなかったから、普段の懦弱さが知れる。」公は唯唯として過ちを謝した。当時、総兵が傍らにおり、争って言った。「この五百人は殺さなければいけないものでございます。それに偽って降ってふたたび反したのですから、殺さなければふたたび反しようとしたでしょう。わたしは国のために殺したのであり、私心で殺したのではございません。」話していると、階下に墨のような黒い気が、声を啾啾とさせながら遠くから来、血は臭くて耐えられず、五百の首級が入り乱れ、転がる球のように、みな口を開け、牙を剥きだしてきて総兵を咬み、さらに公を見た。王者は机を打つと声を荒らげて言った。「ろくでなしめ。偽って投降し、また反するような事があったのか。」幽鬼たちは言った。「ございました。」王者は言った。「それならば総兵がおまえたちを殺したのはまことに妥当だ。これ以上何を騒ぐ。」幽鬼たちは言った。「あの日、偽って投降したものは、首魁数人で、反しましたのも首魁数人でございました。わたしたちはみな従った者たちでございますから、どうしてみな殺しにすることができましょう。それに総兵は嘉靖皇帝の残酷な心に迎合しようとしたのであって、本当に国のため民のためにしたのではございません。」王者は笑って言った。「総兵が民のためにしたのではないというのは正しいが、総兵が国のためにしたのではないというのは違う。この事が二百年捨て置かれたのは、事が公務によるものであり、陰官[196]は断ぜられなかったからなのだ。今、総兵は心が明らかでなく、神になって去ることができず、おまえたちは怨みが消えず、さらに転生して人となることができず、わたしはこの事を上奏し、玉帝の沙汰を待とうと思う。ただ兵備道が犯したことはたいへん小さく、証拠として直筆の諌止の手紙もあるので、人の世へ帰すことができるが、来世では罰として金持ちの娘にし、その懦弱の過ちを懲らすとしよう。」五百人の幽鬼は手に頭を持ち、階を叩いて言った。「大王さまのご命に従いましょう。」そこで青衣に命じ、ふたたび公を引いて出させ、ふたたび鏡の所にゆき、叫んだ。「今生を映してください。」思わず目ざめたが、汗が雨のように出た。見ると家人が囲んで哭いており、すでに昏倒して一昼夜であったと言った。
[2]http://www.zdic.net/c/te/1/2647.htm漢語「将軍」の音訳。清代軍機処及び総理衙門で文書を弁理する官員。
[5]http://www.zdic.net/c/f/6d/108271.htm帝王の質問に回答すること。
[6]http://www.zdic.net/c/1/99/174171.htm監察の責を負った官吏。漢以後の司隷校尉と州県を督察する刺史、転運使、按察使、布政使等は監司と通称する。
[9]http://www.zdic.net/cd/jd/6/ZdicE6Zdic88Zdic9066644.htm原文「乃以鹽務陋規附會成獄」。未詳。とりあえずこう訳す。『清史稿』銭灃伝にもそれらしい話が見えない。
[10]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE6Zdic9FZdicB432196.htm北京市宣武門外菜市口。刑場があった。
[11]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE7Zdic81ZdicB5266129.htm霊輿http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE7Zdic81ZdicB5264989.htm神霊が乗る車駕。
[12]http://www.zdic.net/c/b/17/36993.htm清代、総兵を総戎と称した。総兵は武官名。
[15]http://www.zdic.net/c/5/13c/302615.htm相貌が勇ましいこと。武将、勇士を指す。
[24]http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0CB0QFjAA&url=http%3A%2F%2Fzh.wikipedia.org%2Fzh%2F%25E7%258E%258B%25E5%25A4%25A9%25E5%2590%259B&ei=2e3RVMzBJYmP8QXasICYDg&usg=AFQjCNHbo8Cz5vppwTERmZmVF4dL0ibDvg&bvm=bv.85076809,d.dGc神名。画像検索結果
[25]http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0CCcQFjAA&url=http%3A%2F%2Fzh.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E7%259F%25B3%25E9%259F%259E%25E7%258E%2589&ei=_SloU9qBEs_c8AXApoKAAg&usg=AFQjCNHWAOotc5me8BJpFJD0NklElf4LSQ&bvm=bv.65788261,d.dGI
[26]http://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0CCgQFjAA&url=http%3A%2F%2Fbaike.baidu.com%2Fview%2F332673.htm&ei=IipoU9XvCIOpkAX-0YFY&usg=AFQjCNFfdWsZvBLscv6Rt71w8CHAJehO4w&bvm=bv.65788261,d.dGI
[27]http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0CCcQFjAA&url=http%3A%2F%2Fwww.zdic.net%2Fc%2F2%2F152%2F338523.htm&ei=MQ9sU8fpEMv5lAWZ8IEI&usg=AFQjCNE1RRCA0Bw5DxLtwnKjhpw1HqVkOA&bvm=bv.66330100,d.dGI高僧、儒師が経学を講ずる席。師長、学者の尊称。
[28]http://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0CCgQFjAA&url=http%3A%2F%2Fwww.zdic.net%2Fc%2F6%2F108%2F284567.htm&ei=4oqAU7-wBIHs8AXVx4G4Aw&usg=AFQjCNG4WbhQzIlE2n0J2K5-uTExKcQeSQ&bvm=bv.67720277,d.dGc一つ一つ行うさまであろう。
[30]http://www.zdic.net/c/a/8d/156649.htm進士殿試の後、皇帝に召見せられ、甲第にしたがって名を唱え、呼び出しすること。
[31]http://www.zdic.net/c/8/3f/97809.htm考試を主持すること。
[34]http://baike.baidu.com/subview/1262/14138739.htm?fromtitle=%E6%9C%B1%E6%96%87%E5%85%AC&fromid=6322327&type=search
[37]卷三『焼録成名』
[38]http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0CCAQFjAA&url=http%3A%2F%2Fzh.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E8%2583%25A1%25E7%25B4%2598&ei=NfLRVMO2Ms7g8AWop4GwBA&usg=AFQjCNEIV2ZQSaSFjWjHISpbE8_sqcbNRw&bvm=bv.85076809,d.dGc
[39]http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0CB0QFjAA&url=http%3A%2F%2Fzh.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E6%25B2%2588%25E7%25B9%25BC%25E7%25A5%2596&ei=AvPRVLnpNsv08QXxiIH4Dg&usg=AFQjCNGr1lHIF8oEUkHQNULOhNd4wkIeMA&bvm=bv.85076809,d.dGc
[40]http://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0CCgQFjAA&url=http%3A%2F%2Fzh.wikipedia.org%2Fzh%2F%25E6%259D%258E%25E5%25BF%2583%25E5%2582%25B3&ei=FluJU4i_B46D8gWvioK4Aw&usg=AFQjCNE-2xjfxy4idzBZ0M-v7HJ-D49-EQ&bvm=bv.67720277,d.dGc
[42]http://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=4&cad=rja&uact=8&ved=0CDcQFjAD&url=http%3A%2F%2Fwww.zdic.net%2Fc%2F5%2Ff6%2F258906.htm&ei=DKKAU7m7EtD88QWspYHYDg&usg=AFQjCNELj7K46VM7khtjrj7KxyON5HD8nQ「諡議」とも。帝王、貴族、大臣、士大夫等の死後、礼官が評議その生平の事迹を、謚法に依据し、謚号を擬定し、欽定を奏请することを「謚議」という。
[44]儀曹は礼部郎官の别称。こちらによれば「嘉慶七年(1802年)進士。選翰林院庶吉士。嘉慶十年(1805年)、任礼部主事。嘉慶十二年(1807年)、掌浦城浦南書院講席、次年、入福建巡撫張師誠幕府。」とあり、礼部主事の時のことか。
[47]http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0CB0QFjAA&url=http%3A%2F%2Fzh.wikipedia.org%2Fzh%2F%25E6%259C%25B1%25E7%258F%25AA&ei=NvfRVJe2KoLl8AX3_oKIDg&usg=AFQjCNGcGFzjR5aG0LpMLYMhFHQREzVJaw&bvm=bv.85076809,d.dGc
[52]未詳だが、試験場であろう。
[53]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5Zdic85Zdic88107222.htm自分あるいは他人のすでに死去した祖父。
[57]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE5Zdic85ZdicAC43492.htm&sa=U&ei=uoJIT_upB4zGmQWLmoWdDg&ved=teCBMQFjAA&usg=AFQjCNEUZXIHW71WziIRukQ-y7Slh43VkA挙人が会試を受験すること。
[59]未詳
[60]http://www.zdic.net/c/0/e0/222224.htm皇帝に訴えるための血で書いた奏疏。
[61]http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0CB0QFjAA&url=http%3A%2F%2Fwww.zdic.net%2Fc%2F1%2F9f%2F183308.htm&ei=qv7RVJafFYv98AWDnYLoDg&usg=AFQjCNGoKFcvaDdHu4lAUxEVpxovJG5VKA&bvm=bv.85076809,d.dGc科挙考試の時、監督の責を負う官吏。
[62]未詳。
[63]http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0CB0QFjAA&url=http%3A%2F%2Fzh.wikipedia.org%2Fzh%2F%25E8%2591%25A3%25E5%259C%258B%25E8%258F%25AF&ei=0jjSVPPjGMX58QW6yIHoAw&usg=AFQjCNF3qxUWmRRlthkK3Afz0GfABBKzXQ&bvm=bv.85076809,d.dGY
[73]http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0CB0QFjAA&url=http%3A%2F%2Fzh.wikipedia.org%2Fzh%2F%25E9%25BE%258D%25E5%2595%2593%25E7%2591%259E&ei=wD7SVLDrNYzo8AXS1YKoAQ&usg=AFQjCNGvXDGyG4IYS8PMGaHQVJ9-T_RMyQ&bvm=bv.85076809,d.dGY
[77]http://www.zdic.net/c/d/13d/304364.htm官名。中書舍人の略称。隋、唐代中書省の属官。明清は中書省を廃したが、内閣に中書舍人を設け、撰擬、繕写の事務を掌らせた。
[82]http://www.zdic.net/c/0/36/81952.htm婦女の服飾。冠は、帽子。帔は、披肩。
[87]http://www.zdic.net/c/a/11/27103.htm京官から地方に出て県官に着任すること。
[89]http://www.zdic.net/c/2/d4/203974.htm長江一帯の救護船。『大清會典則例』 の記述。
[91]原文「屠以引疾赴金陵請咨」。「請咨」が未詳。とりあえずこう訳す。
[93]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE9Zdic93Zdic81277193.htm船上で帆を收めたり開いたりする鉄の辘轤。
[95]http://www.zdic.net/c/1/24/57403.htm父母の死に遭うこと。
[97]未詳だが、穀物輸送船であろう。
[101]http://www.zsbeike.com/cd/42202673.html漕運総督http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%95%E9%81%8B%E7%B8%BD%E7%9D%A3
[103]http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0CCcQFjAA&url=http%3A%2F%2Fwww.zdic.net%2Fc%2Fd%2F13d%2F304337.htm&ei=ya6AU82pFMWn8AXgy4Jo&usg=AFQjCNH2efIy2X4eANhdvkpL43V_ozITAw&bvm=bv.67720277,d.dGc
総督、巡撫以下、兵権を持っている者、その標下の統領官を、中軍と称した。
[105]http://www.zdic.net/c/6/2a/64218.htm省治あるいは府治の所在県。その県の知県をも指す。
[106]http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0CBwQFjAA&url=http%3A%2F%2Fwww.zdic.net%2Fc%2Fe%2F29%2F62726.htm&ei=cxbiU67kMcfk8AXlgYKgDQ&usg=AFQjCNFZQ_-SrtlpnQG3mRCCo7VJ0TLlgg&bvm=bv.72197243,d.dGc急送の書信。
[107]原文「蓋案情甚重、若誤入數人死罪、未決則K龍江之行已不可免。」。未詳。とりあえずこう訳す。あやまって数人を死刑に問うていた場合、逆に誣告罪に問われ、流刑に処せられるということであると解す。『大清律例』六十六条「若誣吿平人死罪未決、杖一百、流三千里、加役三年。」
[108]原文「本來有級可抵」。「有級可抵」とは、降級されそうな官員があらかじめ、手段を講じて昇級し、事実上降格を免れることができる状態をいうらしい。http://jiangsu.china.com.cn/html/Culture/history/326654_2.html
[110]案件と関わりがある人員が執法機関にゆき、自分と関わりがある案件の審理に参与すること。http://www.zdic.net/c/0/15e/356441.htm
[111]原文「今有人必欲活之而以避處分、故必致之死、是不死於法而死於心矣。」。未詳。死刑にしないですませようとしているものをむりに処刑するのは、法による裁きとはいえず、残忍な心による処刑だという趣旨か。
[113]原文「今餘不疑於案而疑於餘心之介於公私也」。未詳。とりあえずこう訳す。事実の認定に間違いはなかったと思うが、裁判官が死刑にしないですませようとしているのに自分が犯人を死刑にする事にこだわるのは、公心ではなく個人的な感情によるものと疑われる、という論理か。現代人の考えとはだいぶ違うと思われるのだが。
[115]http://www.zdic.net/c/e/15d/353074.htm徐州を中心とする淮河以北及び海州(現在の連雲港市西南)一帯の地区。
[117]揚州
[118]http://maps.google.com/maps?hl=zh-CN&source=hp&q=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%B1%9F%E8%8B%8F%E7%9C%81%E5%B8%B8%E5%B7%9E%E5%B8%82%E5%A5%94%E7%89%9B%E9%95%87&lr=&oq=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl
[119]http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0CBwQFjAA&url=http%3A%2F%2Fwww.zdic.net%2Fc%2Fd%2Fdb%2F215163.htm&ei=_zTiU6K9J47n8AW-6ICQDA&usg=AFQjCNFPPDLaejZEK1M-iON44URVCLZWFQ&bvm=bv.72197243,d.dGc
父母に事えて孝順、兄弟に友愛であること。
[122]http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0CCIQFjAA&url=http%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E8%25BE%259B%25E5%258D%25AF&ei=NhniU__hLo3n8AWX14GwDQ&usg=AFQjCNHL_EMMsI-E2PspcuGmgIWqnZS9vw&bvm=bv.72197243,d.dGc千八百三十一年
[123]http://www.zdic.net/c/f/101/272466.htm長輩が官となった時、晚輩がいっしょに官署で生活すること。
[127]http://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0CCgQFjAA&url=http%3A%2F%2Fwww.zdic.net%2Fc%2Fa%2F97%2F170960.htm&ei=FOZsU7L7KsTp8AX5o4LAAw&usg=AFQjCNFb4s7wS-ZeZUVMOzLxJJHT6jE7Xg&bvm=bv.66330100,d.dGc巧みな楷書で浄写すること。科挙の時、試巻校閲前の手続きの一つ。http://www.zdic.net/c/a/91/160468.htm謄録院で受験生の答案の謄録事務を担当する官員、進士挙人と五種の貢生の中から選び、皇帝によって任命される。
[128]原文「己丑會試得謄録」。「得謄録」が未詳。謄録官に選ばれたということか。
[129]原文「自云如不中進士、將來由此途去矣。」。未詳。とりあえずこう訳す。
[131]http://www.zdic.net/c/6/107/281103.htm幕賓あるいは塾師の職。
[132]http://www.zdic.net/c/1/32/78535.htm姑母の夫。また、女婿をもいう。邱藜輝 、林慶枯が未詳なので、判断のしようがない。
[133]未詳
[134]未詳
[135]原文「由困而亨」。出典未詳。
[139]http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0CCcQFjAA&url=http%3A%2F%2Fwww.zdic.net%2Fc%2F3%2F28%2F60788.htm&ei=wEuBU9rBH4bp8AWysYFg&usg=AFQjCNH33ftq-CsPOfuHrNvVWVm6ttEvCA&bvm=bv.67720277,d.dGc教育行政を督導視察及び考試を主持すること。
http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%AE%97%E7%80%9A「(嘉慶)八年(1828年)、擢工部侍郎、主持浙江郷試」
[140]http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0CB0QFjAA&url=http%3A%2F%2Fwww.zdic.net%2Fc%2F7%2F15%2F33361.htm&ei=rrbSVOvbGoP58QWX84GYCA&usg=AFQjCNGJOiOIKR0ib3K69amYleKEp26dGA&bvm=bv.85142067,d.dGY国子監祭酒
[141]http://www.zdic.net/c/b/78/124680.htm太子・事。東宫・事府に属する。
[143]http://www.zdic.net/c/6/ed/242515.htm天子がみずからあるいは有司を国学に派遣し、学生に試験を行うこと。
[144]http://www.zdic.net/c/f/101/272466.htm長輩が官となった時、晚輩がいっしょに官署で生活すること。
[146]http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=2&cad=rja&uact=8&ved=0CCIQFjAB&url=http%3A%2F%2Fbaike.baidu.com%2Fview%2F233009.htm&ei=HRTSVJqiMdbd8AWcooLwCA&usg=AFQjCNE-WH6DMRQcISSNY1T2aTYSxZZReA
[147]http://www.zdic.net/c/1/143/314147.htm子孫が顕貴であることにより封典を受けた人。
[148]原文「就其歲盆溫火」。「歲盆」が未詳、正月の供物を盛る大皿か。ただ「溫火」が分からない。保温のために熱をあてているのか。
[150]http://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0CBsQFjAA&url=http%3A%2F%2Fbaike.baidu.com%2Fview%2F3172584.htm&ei=T77EU6XBAor28QXTy4HwCQ&usg=AFQjCNHxVMFtqCa9UhDGoJZm_6OKgmlYOQ&bvm=bv.70810081,d.dGc
[154]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%AE%97%E7%80%9A「(嘉慶)五年(1800年)、主持福建郷試」。
[155]http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0CCcQFjAA&url=http%3A%2F%2Fwww.zdic.net%2Fc%2F3%2F28%2F60788.htm&ei=wEuBU9rBH4bp8AWysYFg&usg=AFQjCNH33ftq-CsPOfuHrNvVWVm6ttEvCA&bvm=bv.67720277,d.dGc教育行政を督導視察及び考試を主持すること。
http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%AE%97%E7%80%9A「(嘉慶)八年(1828年)、擢工部侍郎、主持浙江郷試」
[156]http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0CB0QFjAA&url=http%3A%2F%2Fzh.wikipedia.org%2Fzh%2F%25E5%25BC%25B5%25E5%25B8%25AB%25E8%25AA%25A0&ei=vQLSVLPfIcfM8gWdjYCoCQ&usg=AFQjCNEeZvT8ckdUU1_75PGMx6Jx5pMVnw&bvm=bv.85076809,d.dGc
[159]http://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0CBsQFjAA&url=http%3A%2F%2Fzh.wikipedia.org%2Fzh%2F%25E6%259D%25AD%25E4%25B8%2596%25E9%25A7%25BF&ei=X1XFU_XpLY_58QWJ2YLIAw&usg=AFQjCNEgH-ha9sOoBI7eXoOPgBkJAYOmLg&bvm=bv.70810081,d.dGc
[161]原文「至召請」。「召請」が未詳。とりあえずこう訳す。
[162]http://www.zdic.net/c/c/b/18885.htm人が本来有している心性。
[163]http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0CCcQFjAA&url=http%3A%2F%2Fbaike.baidu.com%2Fview%2F215663.htm&ei=2FSBU7_NAdLn8AW45YCIAg&usg=AFQjCNG2JhC80SDhPgraYidxhujN9UM-Zg&bvm=bv.67720277,d.dGc
[165]http://www.zdic.net/c/7/98/172577.htm特に文昌宫六星の第四星を指す。文運を司るとされるため、文曲星あるいは文星と俗称する。
[168]http://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0CBsQFjAA&url=http%3A%2F%2Fbaike.baidu.com%2Fview%2F18155.htm&ei=PdbiU9H1I4rh8AX7r4KwDg&usg=AFQjCNFTN8_Pbh0-PNtdXKfSBSsgTIfArg&bvm=bv.72676100,d.dGc乾隆四年進士。
[170]原文「袁與杭、陳皆同徴友」。杭・陳はともに乾隆元年(千七百三十六年)博學鴻詞科に舉げられているが、袁枚は乾隆四年進士なので、筆者の知識に誤りがあるか。
[171]原文「當不以意為軒輊。」。未詳。とりあえずこう訳す。同時期に科挙に合格したものだから公正に判断しているという趣旨か。
[174]http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0CB0QFjAA&url=http%3A%2F%2Fzh.wikipedia.org%2Fzh%2F%25E9%25BB%2583%25E5%25AE%2589%25E6%25BF%25A4&ei=_wfSVNyILMeA8gXKloCgBg&usg=AFQjCNGZ_68k-CsBIj9uD1l2pT-E5Mir6g&bvm=bv.85076809,d.dGc広東潮州知府。
[175]http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0CB0QFjAA&url=http%3A%2F%2Fbaike.baidu.com%2Fview%2F3035383.htm&ei=yr3SVK7qCo-68gX6mIDwCQ&usg=AFQjCNGPHIJGDPTdMXm5NShK2fmzvFirLg&bvm=bv.85142067,d.dGY
[181]画像検索結果http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0CB8QFjAA&url=http%3A%2F%2Fwww.zdic.net%2Fc%2Fd%2F8e%2F159510.htm&ei=4AvSVLrsG4b_8QWHyYLwCA&usg=AFQjCNHEb3fR_WL56Lffwu-yQYuxU671hA清代、朝服の上に佩帯する首飾り。念珠に似、百八粒。珠は東珠(珍珠)、珊瑚、翡翠、琥珀、蜜蝋等で制作し、明黄、金黄及び石青色等の諸色の紐を飾りとし、項から胸前に垂らす。朝官は、文官五品、武官四品以上、軍機処、侍衛、礼部、国子監、太常寺、光禄寺、鴻臚寺等に所属する官、及び五品官の命婦以上が、掛けることができる。官品の大小と地位の高低により、用いる珠と紐の色すべて区别がある。その中の東珠と明黄色の紐は皇帝、皇后と皇太后だけが用いられる。
[182]http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0CB0QFjAA&url=http%3A%2F%2Fzh.wikipedia.org%2Fzh%2F%25E4%25BC%258D%25E9%2595%25B7%25E8%258F%25AF&ei=1QzSVKukCIuK8QX0qYDIBA&usg=AFQjCNHRYUTycd-BeC4a6oi2BK3_BuXqmQ&bvm=bv.85076809,d.dGc
[185]http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0CCAQFjAA&url=http%3A%2F%2Fbaike.baidu.com%2Fview%2F218131.htm&ei=WQ_SVLySLMXW8gWWzYB4&usg=AFQjCNGsgu-nTanOaJ5SaBKAK8SCe2qZ5A&bvm=bv.85076809,d.dGc
[188]http://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=2&cad=rja&uact=8&ved=0CCAQFjAB&url=http%3A%2F%2Fwww.zdic.net%2Fc%2F6%2F28%2F61048.htm&ei=F7G0U-ypLc308QXalICABA&usg=AFQjCNGsZSfu5LHSGTF38YQqQNWCo9jMcQ&bvm=bv.70138588,d.dGc未詳だが公文、書信などを管掌する幕友であろう。
[190]http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0CB0QFjAA&url=http%3A%2F%2Fwww.zdic.net%2Fc%2F9%2F2a%2F65605.htm&ei=yQ_SVLH5OYWN8QWo04DICA&usg=AFQjCNGKz4Ev1W4n8UiQlhaBg-lNaihtow明代文人、処士が戴く軟帽。「方巾明代」の画像検索結果
[191]http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0CB8QFjAA&url=http%3A%2F%2Fwww.zdic.net%2Fc%2F1%2F150%2F333261.htm&ei=SBDSVLj9N4Pq8gWMwYLABg&usg=AFQjCNGthGK7t242iLh7osZgf66XbE-QHA紅色の鞋。
[195]王と総兵が。