巻一

◎阿文勤公[1]

わたしの郷里の伊墨卿太守秉[2]は、刑部にいた時、寛大であると称えられていた。後進で教えを請うものには、かならず阿文成公[3]の故事を挙げて告げていた。文成公が貴くなる前、その父阿文勤公克敦が閑居していた。文成が侍立していたところ、文勤は仰ぎみて思うことがあるかのようであったが、突然、文成を顧みて言った。「朝廷がおまえを用いて刑官[4]し、案件を審理させたら、どうする。」文成が学んでおりませんといって遠慮すると、公は言った。「もちろんだ。ひとまず考えを言え。」文成は言った。「法を執行する時は、かならず適切な罰を与え、罪が一分ならば、一分の法を与え、罪が十分ならば、十分の法を与え、軽くしたり重くしたりさせません。」公は激怒し、罵った。「この子はわたしの家を破滅させるから、殺すのが相当だ。」。すぐに杖を探した。文成は恐れ、叩頭して謝った。「大人の戒めに従い、忘れようとはいたしません。」公は言った。「ああ、おまえが言う通りにすれば、天下には五体満足の人はいなくなろう。そもそも罪が十分なら、五六割懲らしめるだけでも堪えられないのに、とことん懲らしめられようか。また、一割の罪なら、尋ねるに足りようか。」その後、文成は刑部の長となり、しばしば属官たちにこのことを述べたので、太守は直接その言葉を受けたのであった。そもそも文成の子阿文毅公彦[5]は、家大人[6]が知遇を得た師であった。かれが刑部で長をしていた時、家大人は機処の会審[7]の件でつねに部にゆき[8]しばしば談に侍していた。当時、文毅はこの言葉で励ましたことがあったので、わたしも間接にその詳細を聴くことができたのであった。庭訓官箴は一を以て貫いており、柱石が続き、[9]絶えなかったのは当然である。さらに家大人は言った。「乾隆年間、馮廉訪廷丞[10]というものがおり、大理寺丞[11]となったことがあり、大理は三法司[12]、平反[13]を司っていたが、刑部の権力が日に日に重くなってから、大理はその職責を尽くしていなかった。馮が着任すると、罪名の相違に関してしばしば糾正駁論することがあり、憐れみ許すことが多く、司はみな怒っていた。おりしも大学士劉文正公[14]は部[15]を総理していたがひとり心のなかで善しとしていた。後に刑部郎から抜擢されて江西按察使に至った。入覲[16]、大学士于文襄公[17]に案件を審理の要諦を尋ねると、馮は言った。「そもそも事件は、追及するほど深くなるから、適当なところでやめれば、情理と法理はともに尽くされよう。」文襄はその言葉を賞賛し、曹司[18]たちに告げて規範としたが、これと阿文勤の言葉はまさに比較対象することができる。

 

◎方恪敏公[19]

 

乾隆五十余年春、畿甸を巡幸していたところ、にわかに村民が聖駕を犯し、手には武器を提げていた。扈従侍衛に阻まれ、闘って捕らえられた。質すと、「直隷のものだ。」と言った。純廟[20]激怒し、言った。「朕は毎年春秋二度巡行し、累は近畿の百姓に及んでいるから、朕を怨むのは当然だ。しかし二度免じる糧は数十年を重ねて数えれば、少なくないのだから、そうした感情を起こすに足りないではないか。これは糸を引いているものがいよう。」時に総督の方恪敏公観承はすでに卡倫(カルン)[21]の門外で聖駕を迎えようとしており、この事を聞くと、馬を飛ばして上を追ったが、乗輿はすでに先を進んでいた。公ははやく走って路傍に伏し、大声で呼んだ。「臣方観承が申し上げます。このものは保定の村狂人でございます。」上はそれを聞くと、すこし振り向き、乗輿はすでに宮門に入った。輿を下ると、すぐに機大臣に伝えて[22]させた。上は言った。「先ほど駕を犯した男は、方観承の上奏によれば狂人だったそうだが、結局どうなった。」機大臣は叩頭して奏した。「観承はひさしく直隷におりましたから、狂人と奏しましたならもちろん間違いございますまい。」上は言った。「それならば、すぐにおまえたちに引き渡し、刑部とともに厳しく尋ね、狂人として処理してもよかろう。」機大臣は叩頭して謝して出、即日行帳[23]で判決した。その時、民衆は、この事件はどのように連座するか分からないと憂え恐れていた。しかし恪敏公の片語によって情勢は挽回され、その事はにわかに解決し、浮雲が太虚を過ぎるかのようになった。本当にいわゆる「仁人の言、その利(ひろ)し」[24]ではないか。後に恪敏公の子勤襄公(甸)[25]も跡を継いで直隷督となったが、国恩[26][27]はもともと由来があったのである。この事は蒋砺堂[28]節相[29]家大人に述べたことで、同時に言うには、恪敏は直隷で功徳がたいへん大きく、かれの逸事行状は、墓志が載せていないことなのでわたしたちは書に記すべきであるということであった。

 

◎曹宗丞[30]

 

曹慕堂宗丞[31](学閔)と紀文達公が、ともに翰林院で仕事に当たっていた時、たまたま八九人の俊英が同館[32]と名声を争って競り合い、いずれも蜚語を受けて院長[33]に憎まれ、弾劾状に掛かりそうな情勢であった。当時、達公も時人に謗られ、疑惑の中にあったが、弁明してやることができず、清[34]に坐し、同僚とともに嘆き惜しんでいた。宗丞はそこで奮起して机を打つと言った。「君はこの事を本当だと思っているのか。数人がいずれも軽薄子に過ぎないなら、排除しても惜しむに足りない。あきらかに冤罪であることを知りながら、職責があるのに寒[35]ように口を噤むのか。」そこで仲間を招いて院長の前にゆくと、宗丞はやんわりと求めた。「公が聞かれたところよれば、これら数人は、免職にしても罪は消えないとのことですが、公のこの言葉はどこから来たのでございましょう。白[36]一たび登り、事が刑曹に下ったときは、証人がいなければ判決できません[37]。まず告訴したものの姓名を示し、奏章の中に列ねるようにお願いします。」。院長はしばらく考え、事は結局沙汰やみとなった。後に八九人はいずれも栄達したが、この件が宗丞によって解決されたことを知るものはなく、宗丞も終生みずから言わなかった。さらにその同年の陳裕斎侍御[38]は、年が四十を過ぎても子がなく、さらに邪魔あり、妾を置けなかった。宗丞は率先して資金を集め、一人の娘を買ってその家に贈ったところ、後に一子を挙げた。侍御夫婦があいついで歿すると、ある婿がその豊かな財産占めることを謀り、あらゆる手段で陥れ、孤児寡婦はまもなく自活することができなくなりそうになった。聞くものは扼腕したが、力になれなかった。宗丞はさらに同年たちを率い、正義を重んじ、議論を起こし、婿を追いはらったため、子は安穏を得、今はすでに勉強して成人している。宗丞の子の[39]は翰林から侍御に選ばれ、孫の汝淵[40]も庶常[41]から刑部に改まったが、人はみな宗丞の陰徳の報いであると思った。思うに宗丞の墓志銘は朱文正[42]の手に出、神道碑は銭竹汀先生[43]の手に出ているが、この二事はいずれも載せておらず、そもそも亡き叔祖[44]太常公[45]が直接紀文達公に聞いたことであった。錫齢は太常公の乙未の同年、汝淵亡き伯父曼雲公[46]の己未の同年で、その祖父の徳について述べていたが、やはりこのようであった。

 

◎呉祭酒

 

呉穀人先生(麒)[47]が役人になってまもなくかれの家はちょうど七月で盂会をしていた。事が終わると、老僕が什物運んで中に入ったが、寒林大士[48]に供した半卓[49]がなお外に置かれていたので盗人が隙をみてひそかに背負って去った。しもべが出てきて、卓を探したが見つからなかったので、しもべたち尋ねると、先生は黙って広間の側に坐し、答えた。「さきほど一人が背負っていった。」しもべは言った。「どうして呼ばれなかったのでございましょう。」先生は言った。「その人が背負って去ったのに、呼んでも仕方あるまい。」そこで家を挙げてみな先生が愚かであるとかげで笑った。先生は儒林の高い声望を負っていたが、これはその一件で、すでに青坡吾の家の故物と同じである[50]。その後、成均[51]率い、長寿を授かり、令息のあるものは鼎甲[52]に登り、あるものは枢廷[53]に入ったが、厚徳の報いでなかったといえようか。先生と亡き叔祖[54]太常公[55]は、乙未の同年で、家大人が太常公から聞かれたことをこのように述べてくださった

 

◎昭勇将軍

 

儀徴の阮芸台[56]閣老[57]は、わたしの亡き伯父曼雲公[58]の己未の座主[59]であった。兄の師は、弟も師と称するので、家大人弟子の礼を執っていた。道光壬寅[60]、わたしは家大人に随侍して邗上[61]に寓居すること三月、閣老方子告[62]が郷里におり、しばしば談しに来たので、わたしは傍らからひそかに容貌を窺うことができた。そこでひそかに家大人に尋ねた。「このように福徳・智恵ともに十分な一代の人は、その祖宗の功徳が、どのようであって、齎されたのか分かりません。」家大人は言った。「おまえはわたしの師の『研室文集』[63]読んでいないか。集の中に載せてあるが、わたしのの封翁[64]に昭勇将軍[65]であったものがおり、名は玉堂、字は琢庵[66]といい、武進士で家を興し、内廷で侍衛し、閫外で遊撃に選ばれた。乾隆初年、湖北の苗疆[67]九溪[68]遊撃が九溪・州・洞庭・常徳四営の兵を率いて湖南の叛逆した苗族を征するのに従い、みずから兵士に先がけ、転戦してすべて勝利した。たまたま広泗[69]が公に命じて南山大箐屯[70]賊を討伐させ、公は正兵で偽って外を攻めさせ、みずからは奇兵を率い、間道から藤を攀じ、嶺を越えて入り、大勝した。残党八百戸は退いて南嶺に拠り、食糧が尽きて投降したところ、督は賊が偽っていることを心配し、許さなかったが、公はつとめてかれらの誠実さを弁じ、死をもって保証し、守った者は数えきれなかった。後にさらに横坡[71]に進攻し、男女数千人を捜して捕らえると、総督はすぐに誅しようとした。公は再三諌止したが従われなかったので、やむを得ず、求めた。『壮丁で武器を執って抵抗できるものは、殺し、女および男で十六以下のものは、かならず許すべきでございます。』生かしたものはさらに数えきれなかった。九溪に北山[72]あり、周囲は数十里で、以前から兵士や民衆の拠り所となっていた明末の指揮[73]豪族の子孫がおり、先祖伝来の旧地だと訴え、官に取り調べを委ね、奪おうとしていた。公は慨然[74]として省城に入り、つとめて大府の前言った。『土地が豪族のものであっても、それは前代の事でございます。今ではひさしく万の家に葬地・樵牧[75]の便を供しており、一旦奪われて一つの家に属すれば、数万の家々はどうなりましょう。』大府[76]はそこでこれが武弁の職分内の事でないことを悟った。しかし公は不[77]を冒して争い[78]、結局挽回することができた。かれが民を利したことはこのようであった。公は自身はただの遊撃で終わったが、今は孫が貴いことによって八座[79]の祭祀を受け、一品の封を受け、門生は天下に満ちているから、大いに報いを受けている。」家大人は言った。「武器は凶器であり、戦争は危険である。しかし、禍を転じて吉とし、危難を転じて平安とすれば、はじめて国事に救いがある。殺人を逞しくして功績を求めるだけなら、大局にいささかも裨益せず、国家にこの挙があること必要なく、天地にこの人がいることは頼りにならない。」古人は「旅の間では、有益なのは仁恕だけだ。[80]」と言っているが、もっとも味わい深い。漢の飛将軍李広は、降した羌八百余人を誘殺し、それによって侯を得なかった[81]。広は後に道に迷ったために自殺した[82]その孫の陵に至り、さらに俘虜となったために、一族皆殺しとなった。昭勇将軍の事と二千余年ではるかに相対し、天はどうして知れないことがあろうか。

 

◎姚文僖公[83]

 

湖州の姚秋先生(文田)曼雲公[84]の己未の同年であったが[85]、その年の元旦、かれの同じ州の某が夢みてとある役所ゆくと、「状元の掲示が出た。」と喧伝されているのが聞こえた。門が開くと、二人の衣の(したやく)が二流の黄旗を捧げて出、旗の端にはそれぞれ人心は欺き易く、天理は欺き難し。」の四文字綴られていた。目ざめたが、何の言葉か分からなかった。[86]になると姚第一であったが、この夢のことを告げるいた。先生はしばらく考えると、はっとして言った。「これは亡き高祖父某公の言葉だ。公が皖江[87]で提刑[88]をしていた時、獄の二人の囚人が仇敵に誣告され死罪に陥れられていた。公はその事件は証拠がないと思い、出獄させようとしたが、仇敵は二千両を献じ、かならず死刑にすることを求めた。公は『人心は欺き易く、天理は欺き難し。金を得て枉げて人を殺すを、天は許さず。』と言い、退けて受けず、結局二人の囚人を獄から出した。旗の端に書かれていたのはこのことではないか。」ああ。法廷の片でありながら、天が聴いて拠りどころとし、百年後にその遠孫に大科[89]の報いを受けさせたのだ。人命を司るものも、興隆することができるのである[90]。後に先生は官を歴任して大宗伯[91]に至り、諡を文僖といった。

 

◎彭・荘両家が字を書いた紙を大事にすること

 

わたしは公[92]上京し、はじめてしばしば彭詠莪(章)[93]に会った。詠莪は長兄吉甫[94]と親友であったので、わたしたち兄弟とみな仲が良かった。かれらが代々合格し、江蘇に冠絶していることは、もとより知っていたので、その家興隆している理由を尋ねると、詠莪は言った。「わたしたち蘇州の彭家と武進の荘家は、世人からいずれも善行を積んだ家と称せられています。雍正丁未科[95]で、わたしの曽祖芝庭公は啓豊[96]と武進の荘公名は柱[97]は同房でした。荘さんの母太夫人が夢みますと、三人の神がその試験の鼎甲[98]のことを相談しており、一人の神が言いました。『亡き祖父の陰徳を論じれば、荘は彭と等しいが、本人が字を書いた紙を大事にした点では、荘は彭に及ばない。』一人の神が言った。『それならば、すぐに彭を改めて第一にするのがよいだろう。』[99]の後、はじめて荘がもともと首席になるはずだったが、芝庭公第十位が改まって第一位にされたことを知りました。この事は当時人口に膾炙し、荘さんはそのためますます字を書いた紙を大事にすることに専心しました。後に二人のお子さんはいずれも鼎甲に合格しました。長男は方耕侍郎(存与)[100]さんで、乾隆乙酉[101]の榜眼、次男本醇学士(培因)[102]で、甲戌の状元でした。これがわたしたち両家の、字を書いた紙を惜しんだ報いの確かなものです。しかし世人はそれを察せず、わたしの家はもっぱら文昌を信奉し、筆籙[103]術を訓練でき、合格に関しては、嚢を探って物を取るかのようなものだと思っています。わたしの家は国初以来、文昌を信奉することは確かにありますが、筆籙の事はほとんど知らず、もともと教訓にすることができるものではありませんので、息子に告げようとしないのです。」思うに彭芝庭尚書は、雍正丁未[104]の会状[105]であるが、その祖南ホ侍講(定求)[106]は、本当に先に康熙丙辰[107]会状となっており、祖父と孫で会状が相ついだ家は、海内に二つとなかった。その後、ついで及第するものは、なお連綿として絶えず、わたしがよく知るものだけでも、たとえば修田侍郎(希濂)[108]わが福建で典試したことがあり、葦間太守(希[109]は、家大人とともに礼部で官となり[110]編修蘊輝[111]と曼雲公[112]は己未[113]の同年で、詠莪も進士になり、枢直に入り[114]、少京兆[115]に選ばれ、かれの末子はさらに庚子[116]に北[117]副車[118]に合格した。かれの亡き祖父が徳を積むことが深いこと、その報いを受けることが長いことが分かるが字を書いた紙を惜しんだ一件だけではないようである

 

最終更新日:2018222

北東園筆録

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[1]http://baike.baidu.com/view/7750070.htm?fromtitle=%E9%98%BF%E5%85%8B%E6%95%A6&fromid=7919533&type=search 

[2]http://baike.baidu.com/view/214387.htm 

[3]http://baike.baidu.com/view/165691.htm 

[4]http://www.zdic.net/c/1/11/27558.htm刑法を掌る官吏。

[5]http://baike.baidu.com/view/212930.htm 

[6]筆者梁恭辰の父、梁章鉅

[7]http://www.zdic.net/c/a/108/284081.htm会合

[8]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/%25E6%25A2%2581%25E7%25AB%25Ate%25E9%2589%2585&sa=U&ei=5bdKT_yeIMuemQWvvOj_Bw&ved=teCBwQFjAB&usg=AFQjCNEU1fF8yHfmLIG-eJR64IxToOYjxQ筆者の父梁章鉅は軍機章京

[9]http://www.zdic.net/c/a/77/12te868.htm官吏の冠顕貴の

[10]http://zh.wikipedia.org/zh/%E9%A6%AE%E5%BB%B7%E4%B8%9E 

[11]http://baike.baidu.com/view/989631.htm官名

[12]http://www.zdic.net/c/9/149/323307.htm 刑部都察院大理寺三法司とし、重大案件れば三法司よって会した

[13]http://www.zdic.net/c/3/142/312060.htm冤屈誤審の案件正すこと

[14]http://baike.baidu.com/view/79431.htm

[15]http://www.zdic.net/cd/ci/1te/ZdicE9Zdic83ZdicA8244te95.htm政府部の公

[16]http://www.zdic.net/c/5/37/84626.htm地方の官員が入朝して帝王に進見すること

[17]http://baike.baidu.com/view/199331.htm

[18]http://www.zdic.net/c/9/143/314te42.htm下役頭

[19]http://baike.baidu.com/view/199722.htm 

[20]乾隆帝のこと。

[21]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%A1%E4%BC%A6略的に重要な地にけられた事的駐在所。

[22]http://www.zdic.net/c/5/4/9314.htm 臣下が宮に入り、皇帝が出した問題あるいは質問に回答すること。

[23]http://www.zdic.net/c/c/72/115633.htmひろく高武官の在外の住所を指す。

[24]http://ctext.org/pre-qin-and-han/zh?searchu=%E4%BB%81%E4%BA%BA%E4%B9%8B%E8%A8%8te%EF%BC%8C%E5%85%B6%E5%88%A9%E5%8D%9A

[25]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B9%E7%B6%AD%E7%94%B8 

[26]http://www.zdic.net/c/d/71/113751.htm王朝あるいは君主がった恩惠。

[27]http://www.zdic.net/c/6/1tef/295272.htm家庭内の慶事

[28] http://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%94%A3%E6%94%B8%E9%8A%9B 

[29]「蒋節相」の検索結果

[30]http://baike.baidu.com/view/44te768te.htm

[31]http://baike.baidu.com/view/56727.htm宗人府丞。

[32]http://www.zdic.net/c/c/70/111185.htm ともに翰林院で職にあること館は館閣のこと

[33]掌院学士のことであろうと思われる。

[34]http://ctext.org/wiki.pl?if=gb&res=98755&searchu=%E6%B8%85%E7%A7%98%E5%Ate%82

[35]http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE5ZdicAFZdic92294126.htm天候が寒くなった後、鳴かなくなった、あるいは低く鳴く蝉。

[36]http://www.zdic.net/cd/jd/5/ZdicE7Zdic99ZdicBD189856.htm員を劾する奏章。

[37]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE6Zdic88Zdic9te66644.htm&sa=U&ei=OnNIT57oGefmmAWM5MT9DQ&ved=teCBoQFjAA&usg=AFQjCNGzYB8zlnv3tkhmttLRSRzHK_7VDAすでに判決せられ批准を待っている、あるいはすでに判決が行されている刑事案件。

[38]未詳。曹学閔の同年に陳姓多数。

[39]https://www.google.co.jp/?hl=zh-CN&gws_rd=cr,ssl&ei=Ku7MVKuDF9jt8AWon4KwCg#hl=zh-CN&q=%E6%9B%B9%E9%8C%AB%E9%BD%A1

乾隆四十年乙未科殿試金榜参照。

[40]グーグル検索結果嘉慶四年己未科殿試金榜に名がある。

[41]http://www.zdic.net/c/6/76/12tete33.htm庶吉士http://www.zdic.net/c/6/78/122979.htm官名。

[42]http://baike.baidu.com/subview/214491/6388266.htm

[43]http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=2&cad=rja&uact=8&ved=teCCIQFjAB&url=http%3A%2F%2Fzh.wikipedia.org%2Fzh%2F%25E9%2592%25B1%25E5%25A4%25A7%25E6%2598%2595&ei=IterKVP3fJYuD8QXH14GYBw&usg=AFQjCNFu-991D3L7en3GwGIMGEbcLogAFQ&bvm=bv.846te7526,d.dGc

[44]http://www.zdic.net/c/4/10/26719.htmの叔父。

[45]後ろに「錫齢は太常公の乙未の同年」とあることから、乾隆四十年乙未科殿試金榜をもとに、梁上國と推定される。

[46]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%81%E9%81%8B%E6%98%8C

[47]検索結果こちらによれば「字聖徴,号穀人。清塘(今浙江杭州)人。曾院。病卒于州梅花院。」

[48]未詳。検索結果

[49]未詳

[50]原文「已與青坡吾家故物同一風」。まったく未詳。

[51]こちらによれば「古之大学。」もしくは「官的最高学府。」とあるがこちらで述べられている呉穀人の経歴にそれらしいものがないので、ここでいう「成均」が何を指すのかは未詳。

[52]http://www.zdic.net/cd/jd/12/ZdicE9ZdicBCZdic8E54925.htm状元眼、探花の称。

[53]http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE6Zdic9EZdicA213422te.htm政権の中枢

[54]http://www.zdic.net/c/4/10/26719.htmの叔

[55]梁上國

[56]http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=2&cad=rja&uact=8&ved=teCCteQFjAB&url=http%3A%2F%2Fbaike.baidu.com%2Fview%2F3te386.htm&ei=mnBoU-nZK4TEkgXtteYCgBg&usg=AFQjCNGteo9HoOSvuno7ec8IhKiJa8pqYFQ&bvm=bv.66111te22,d.dGI

[57]http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=teCCcQFjAA&url=http%3A%2F%2Fwww.zdic.net%2Fc%2F1%2F1tete%2F27te495.htm&ei=w3BoU9qfMoXAkAWOteYGwCg&usg=AFQjCNGQiteG_PNteY-SssROntfYsswelte9g&bvm=bv.66111te22,d.dGI翰林で勅をる学士の呼称。

[58]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%81%E9%81%8B%E6%98%8C

[59]http://www.zdic.net/c/7/78/122958.htm人、士またその本科主考官あるいは裁官座主と称する。座とも称する。

[60]http://zh.wikipedia.org/wiki/1842%E5%B9%B4

[61]http://baike.baidu.com/view/1154824.htm揚州

[62]未詳。

[63]阮元の文集。

[64]http://www.zdic.net/c/1/143/314147.htm孫が顕貴であることにより封典を受けた人。

[65]http://ctext.org/wiki.pl?if=gb&res=98755&searchu=%E6%98%AD%E5%8B%87武官名。

[66]『清史稿』での出現箇所

[67]未詳だが、苗族の居住地域であろう。『清史稿』に用例多数

[68]http://ctext.org/wiki.pl?if=gb&res=98755&searchu=%E4%B9%9D%E6%BA%AA%E7%87%9F

[69]http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=teCBteQFjAA&url=http%3A%2F%2Fzh.wikipedia.org%2Fzh%2F%25E5%25BC%25Ate%25E5%25B9%25BF%25E6%25B3%2597&ei=61PKVJuyIZPx8gWzooCgAw&usg=AFQjCNF_a-JamqgENY4Yh5oOg-2tL2MANQ&bvm=bv.846te7526,d.dGc

[70]『清史稿』における用例。張広泗の名も出てくる。

[71]未詳

[72]未詳

[73]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE6Zdic8CZdic871414te1.htm軍職名。

[74]http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE6Zdic85ZdicA832te778.htm感情激昂のさま。

[75]http://www.zdic.net/cd/ci/16/ZdicE6ZdicA8ZdicB584121.htm柴刈りと放牧。

[76]http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE5ZdicA4ZdicA795618.htm督、巡

[77]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE4ZdicB8Zdic8D289619.htm&sa=U&ei=GnpIT9zCHvDGmQWh_IT6DQ&ved=teCBsQFjAD&usg=AFQjCNGrNlDuY7lcteu1DHmN3qdko6JdxMg不善

[78]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE5Zdic86Zdic928te2te4.htm公然として天下が最大の錯誤であると認めることを犯すこと

[79]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/2/ZdicE5Zdic85ZdicAB6549.htm&sa=U&ei=O3pIT6iaGOTPmAWMs8H3DQ&ved=teCBcQFjAC&usg=AFQjCNGQqnwyn8JYvOYoYRLCSZ7OfterjvA六部の尚の呼称

[80]原文「軍旅之間、可濟者惟仁恕最為有味」。出典

[81]廣曰:「吾嘗為隴西守,羌嘗反,吾誘而降,降者八百餘人,吾詐而同日殺之。至今大恨獨此耳。」朔曰:「禍莫大於殺已降,此乃將軍所以不得侯者也。」

[82]こちらを参照。『史記』の記述は以下。

至莫府,廣謂其麾下曰;「廣結發與匈奴大小七十餘戰,今幸從大將軍出接單于兵,而大將軍又徙廣部行回遠,而又迷失道,豈非天哉!且廣年六十餘矣,終不能復對刀筆之吏。」遂引刀自剄。

[83]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/991591.htm&sa=U&ei=yJxJT4LBN4_MmAXqn_CjDg&ved=teCBMQFjAA&usg=AFQjCNHpxOLirteWGezmCif-8YiyIRpMVw

[84]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%81%E9%81%8B%E6%98%8C

[85]嘉慶四年己未科殿試金榜を参照。

[86]http://www.zdic.net/c/a/8d/156649.htm士殿の後、皇帝に召見せられ、甲第にしたがって名を唱え、呼び出しすること

[87]http://baike.baidu.com/view/117te557.htm湖、安、池州、陵、宣城、滁州と鞍山。

[88]http://baike.baidu.com/view/59798.htm。官名。提点刑公事の称,あるいは提点刑獄と称する。

[89]こちらでは、「博学鴻詞科」の意味だというが、姚文田は博学鴻詞科に合格したわけではないから事実と合わない。

[90]原文「司民命者、亦可以興矣。」。「興」が未詳。とりあえず、こう訳す。

[91]http://baike.baidu.com/view/912997.htm礼部尚

[92]http://www.zdic.net/c/c/1C/43492.htm 人が会試を受験すること

[93]http://baike.baidu.com/view/384879.htm

[94]梁逢辰こちらを参照。

[95]http://zh.wikipedia.org/wiki/Template:%E9%9B%8D%E6%AD%A3%E4%BA%94%E5%B9%B4%E4%B8%81%E6%9C%AA%E7%A7%91%E6%AE%BF%E8%A9%A6%E9%87%91%E6%A6%9C

[96]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%AD%E5%95%9F%E8%B1%9te

[97]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%8E%8A%E6%9F%B1

[98]http://www.zdic.net/cd/jd/12/ZdicE9ZdicBCZdic8E54925.htm状元、榜眼、探花の称。

[99]http://www.zdic.net/c/a/8d/156649.htm士殿の後、皇帝に召見せられ、甲第にしたがって名を唱え、呼び出しすること

[100]http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=teCBteQFjAA&url=http%3A%2F%2Fzh.wikipedia.org%2Fzh%2F%25E8%258E%258A%25E5%25AD%2598%25E8%2588%2587&ei=dOfKVMb1DIjh8gXJpIGIAQ&usg=AFQjCNEXKVoWqPTV5OtrIIYZZdSSGGJu5Q&bvm=bv.846te7526,d.dGc

[101]http://ja.wikipedia.org/wiki/1765%E5%B9%B4

[102]http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=teCBteQFjAA&url=http%3A%2F%2Fzh.wikipedia.org%2Fzh%2F%25E8%258E%258A%25E5%259F%25B9%25E5%259B%25Ate&ei=7OfKVIi5ItHd8AWp-YII&usg=AFQjCNHBJrk6awhLABkWD6Zn_1DvLs_z5A&bvm=bv.846te7526,d.dGc

[103]原文同じ。まったく未詳。妖術のようなものか。

[104]雍正五年丁未科殿試金榜参照

[105]http://www.zdic.net/c/a/1te8/284te12.htm会元と状元。

[106]http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=teCBteQFjAA&url=http%3A%2F%2Fzh.wikipedia.org%2Fzh%2F%25E5%25BD%25AD%25E5%25AE%259A%25E6%25B1%2582&ei=q-7KVIeCA43s8AWk3IGQBQ&usg=AFQjCNELlcfiAG4g-Hwnh4-2V5EeoK2_EA&bvm=bv.846te7526,d.dGc

[107]康熙十五年丙辰科殿試金榜参照

[108]http://archive.ihp.sinica.edu.tw/ttscgi/ttsquery?te:te:mctauac:TM%3D%B4%5E%A7%C6%BE%FC

[109]グーグル検索結果

[110]「家大人」梁章鉅の官歴。嘉十年(1805年)礼部主事。道光元年(1821年)、礼部郎。

[111]未詳。こちらには名が出てくる。

[112]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%81%E9%81%8B%E6%98%8C

[113]こちらの嘉慶四年(1799年)己未科殿試金榜を参照。

[114]原文「入樞直」。こちらにある「授工部主事,仍留直」ということであろう。軍機処での宿直。

[115]天府丞のこと。こちらにある彭詠莪の官歴を参照。

[116]http://ja.wikipedia.org/wiki/1840%E5%B9%B4

[117]http://baike.baidu.com/view/1te3221te.htm会試

[118]http://www.zdic.net/c/f/6a/1te2747.htm郷試の副榜生。

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