●巻一
◎阿文勤公[1]
わたしの郷里の伊墨卿太守秉綬[2]は、刑部にいた時、寛大であると称えられていた。後進で教えを請うものには、かならず阿文成公[3]の故事を挙げて告げていた。文成公が貴くなる前、その父阿文勤公克敦が閑居していた。文成が侍立していたところ、文勤は仰ぎみて思うことがあるかのようであったが、突然、文成を顧みて言った。「朝廷がおまえを用いて刑官[4]にし、案件を審理させたら、どうする。」文成が学んでおりませんといって遠慮すると、公は言った。「もちろんだ。ひとまず考えを言え。」文成は言った。「法を執行する時は、かならず適切な罰を与え、罪が一分ならば、一分の法を与え、罪が十分ならば、十分の法を与え、軽くしたり重くしたりさせません。」公は激怒し、罵った。「この子はわたしの家を破滅させるから、殺すのが相当だ。」。すぐに杖を探した。文成は恐れ、叩頭して謝った。「大人の戒めに従い、忘れようとはいたしません。」公は言った。「ああ、おまえが言う通りにすれば、天下には五体満足の人はいなくなろう。そもそも罪が十分なら、五六割懲らしめるだけでも堪えられないのに、とことん懲らしめられようか。また、一割の罪なら、尋ねるに足りようか。」その後、文成は刑部の長となり、しばしば属官たちにこのことを述べたので、太守は直接その言葉を受けたのであった。そもそも文成の子阿文毅公彦成[5]は、家大人[6]が知遇を得た師であった。かれが刑部で長をしていた時、家大人は軍機処の会審[7]の件でつねに部にゆき[8]、しばしば談に侍していた。当時、文毅はこの言葉で励ましたことがあったので、わたしも間接にその詳細を聴くことができたのであった。庭訓、官箴は一を以て貫いており、柱石が続き、簪纓[9]が絶えなかったのは当然である。さらに家大人は言った。「乾隆年間、馮廉訪廷丞[10]というものがおり、大理寺丞[11]となったことがあり、大理は三法司[12]で、平反[13]を司っていたが、刑部の権力が日に日に重くなってから、大理はその職責を尽くしていなかった。馮が着任すると、罪名の相違に関してしばしば糾正駁論することがあり、憐れみ許すことが多く、諸司はみな怒っていた。おりしも大学士劉文正公[14]は部務[15]を総理していたが、ひとり心のなかで善しとしていた。後に馮も刑部郎から抜擢されて江西按察使に至った。入覲[16]し、大学士于文襄公[17]が馮に案件を審理の要諦を尋ねると、馮は言った。「そもそも事件は、追及するほど深くなるから、適当なところでやめれば、情理と法理はともに尽くされよう。」文襄はその言葉を賞賛し、曹司[18]たちに告げて規範としたが、これと阿文勤の言葉はまさに比較対象することができる。
◎方恪敏公[19]
乾隆五十余年春、畿甸を巡幸していたところ、にわかに村民が聖駕を犯し、手には武器を提げていた。扈従侍衛に阻まれ、闘って捕らえられた。質すと、「直隷のものだ。」と言った。純廟[20]は激怒し、言った。「朕は毎年春秋二度巡行し、累は近畿の百姓に及んでいるから、朕を怨むのは当然だ。しかし二度免じる銭糧は数十年を重ねて数えれば、少なくないのだから、そうした感情を起こすに足りないではないか。これは糸を引いているものがいよう。」時に総督の方恪敏公観承はすでに卡倫[21]の門外で聖駕を迎えようとしており、この事を聞くと、馬を飛ばして上を追ったが、乗輿はすでに先を進んでいた。公ははやく走って路傍に伏し、大声で呼んだ。「臣方観承が申し上げます。このものは保定の村の狂人でございます。」上はそれを聞くと、すこし振り向き、乗輿はすでに宮門に入った。輿を下ると、すぐに軍機大臣に伝えて入対[22]させた。上は言った。「先ほど駕を犯した男は、方観承の上奏によれば狂人だったそうだが、結局どうなった。」軍機大臣は叩頭して奏した。「方観承はひさしく直隷におりましたから、狂人と奏しましたなら、もちろん間違いございますまい。」上は言った。「それならば、すぐにおまえたちに引き渡し、刑部とともに厳しく尋ね、狂人として処理してもよかろう。」軍機大臣は叩頭して謝して出、即日行帳[23]で判決した。その時、民衆は、この事件はどのように連座するか分からないと憂え恐れていた。しかし恪敏公の片語によって情勢は挽回され、その事はにわかに解決し、浮雲が太虚を過ぎるかのようになった。本当にいわゆる「仁人の言、その利溥し」[24]ではないか。後に恪敏公の子勤襄公(維甸)[25]も跡を継いで直隷総督となったが、国恩[26]家慶[27]にはもともと由来があったのである。この事は蒋砺堂[28]節相[29]が家大人に述べたことで、同時に言うには、恪敏は直隷で功徳がたいへん大きく、かれの逸事行状は、墓志が載せていないことなので、わたしたちは書に記すべきであるということであった。
◎曹宗丞[30]
曹慕堂宗丞[31](学閔)と紀文達公が、ともに翰林院で仕事に当たっていた時、たまたま八九人の俊英が同館[32]と名声を争って競り合い、いずれも蜚語を受けて院長[33]に憎まれ、弾劾状に掛かりそうな情勢であった。当時、文達公も時人に謗られ、疑惑の中にあったが、弁明してやることができず、清秘堂[34]に坐し、同僚とともに嘆き惜しんでいた。宗丞はそこで奮起して机を打つと言った。「諸君はこの事を本当だと思っているのか。数人がいずれも軽薄子に過ぎないなら、排除しても惜しむに足りない。あきらかに冤罪であることを知りながら、職責があるのに寒蝉[35]のように口を噤むのか。」そこで仲間を招いて院長の前にゆくと、宗丞はやんわりと求めた。「公が聞かれたところによれば、これら数人は、免職にしても罪は消えないとのことですが、公のこの言葉はどこから来たのでございましょう。白簡[36]が一たび登り、事が刑曹に下ったときは、証人がいなければ判決できません[37]。まず告訴したものの姓名を示し、奏章の中に列ねるようにお願いします。」。院長はしばらく考え、事は結局沙汰やみとなった。後に八九人はいずれも栄達したが、この件が宗丞によって解決されたことを知るものはなく、宗丞も終生みずから言わなかった。さらにその同年の陳裕斎侍御[38]は、年が四十を過ぎても子がなく、さらに邪魔があり、妾を置けなかった。宗丞は率先して資金を集め、一人の娘を買ってその家に贈ったところ、後に一子を挙げた。侍御夫婦があいついで歿すると、ある婿がその豊かな財産を占めることを謀り、あらゆる手段で陥れ、孤児寡婦はまもなく自活することができなくなりそうになった。聞くものは扼腕したが、力になれなかった。宗丞はさらに同年たちを率い、正義を重んじ、議論を起こし、婿を追いはらったため、子は安穏を得、今はすでに勉強して成人している。宗丞の子の錫齢[39]は翰林から侍御に選ばれ、孫の汝淵[40]も庶常[41]から刑部に改まったが、人はみな宗丞の陰徳の報いであると思った。思うに宗丞の墓志銘は朱文正公[42]の手に出、神道碑は銭竹汀先生[43]の手に出ているが、この二事はいずれも載せておらず、そもそも亡き叔祖[44]太常公[45]が直接紀文達公に聞いたことであった。錫齢は太常公の乙未の同年、汝淵は亡き伯父曼雲公[46]の己未の同年で、その祖父の徳について述べていたが、やはりこのようであった。
◎呉祭酒
呉穀人先生(錫麒)[47]が役人になってまもなく、かれの家はちょうど七月で盂蘭会をしていた。事が終わると、老僕が什物を運んで中に入ったが、寒林大士[48]に供した半卓[49]がなお門外に置かれていたので、盗人が隙をみてひそかに背負って去った。しもべが出てきて、卓を探したが見つからなかったので、しもべたちに尋ねると、先生は黙って広間の側に坐し、答えた。「さきほど一人が背負っていった。」しもべは言った。「どうして呼ばれなかったのでございましょう。」先生は言った。「その人が背負って去ったのに、呼んでも仕方あるまい。」そこで家を挙げてみな先生が愚かであるとかげで笑った。先生は儒林の高い声望を負っていたが、これはその一件で、すでに青坡吾の家の故物と同じ趣である[50]。その後、成均[51]を率い、長寿を授かり、令息のあるものは鼎甲[52]に登り、あるものは枢廷[53]に入ったが、厚徳の報いでなかったといえようか。先生と亡き叔祖[54]太常公[55]は、乙未の同年で、家大人が太常公から聞かれたことをこのように述べてくださった。
◎昭勇将軍
儀徴の阮芸台[56]閣老[57]は、わたしの亡き伯父曼雲公[58]の己未の座主[59]であった。兄の師は、弟も師と称するので、家大人も弟子の礼を執っていた。道光壬寅[60]、わたしは家大人に随侍して邗上[61]に寓居すること三か月、閣老方子告[62]が郷里におり、しばしば閑談しに来たので、わたしは傍らからひそかに容貌を窺うことができた。そこでひそかに家大人に尋ねた。「このように福徳・智恵ともに十分な一代の偉人は、その祖宗の功徳が、どのようであって、齎されたのか分かりません。」家大人は言った。「おまえはわたしの師の『研経室文集』[63]を読んでいないか。集の中に載せてあるが、わたしの師の封翁[64]に昭勇将軍[65]であったものがおり、名は玉堂、字は琢庵[66]といい、武進士で家を興し、内廷で侍衛し、閫外で遊撃に選ばれた。乾隆初年、湖北の苗疆[67]九溪営[68]の遊撃が九溪・灃州・洞庭・常徳四営の兵を率いて湖南の叛逆した苗族を征するのに従い、みずから兵士に先がけ、転戦してすべて勝利した。たまたま総督張広泗[69]が公に命じて南山大箐屯[70]の賊を討伐させ、公は正兵で偽って外を攻めさせ、みずからは奇兵を率い、間道から藤を攀じ、嶺を越えて入り、大勝した。残党八百戸は退いて南嶺に拠り、食糧が尽きて投降したところ、総督は賊が偽っていることを心配し、許さなかったが、公はつとめてかれらの誠実さを弁じ、死をもって保証し、守った者は数えきれなかった。後にさらに横坡[71]に進攻し、男女数千人を捜して捕らえると、総督はすぐに誅しようとした。公は再三諌止したが従われなかったので、やむを得ず、求めた。『壮丁で武器を執って抵抗できるものは、殺し、婦女および男で十六歳以下のものは、かならず許すべきでございます。』生かしたものはさらに数えきれなかった。九溪に北山[72]があり、周囲は数十里で、以前から兵士や民衆の拠り所となっていた。明末の指揮[73]豪族の子孫がおり、先祖伝来の旧地だと訴え、官に取り調べを委ね、奪おうとしていた。公は慨然[74]として省城に入り、つとめて陳大府の前で言った。『土地が豪族のものであっても、それは前代の事でございます。今ではひさしく数万の家に葬地・樵牧[75]の便を供しており、一旦奪われて一つの家に属すれば、数万の家々はどうなりましょう。』大府[76]はそこでこれが武弁の職分内の事でないことを悟った。しかし公は不韙[77]を冒して争い[78]、結局挽回することができた。かれが民を利したことはこのようであった。公は自身はただの遊撃で終わったが、今は孫が貴いことによって八座[79]の祭祀を受け、一品の封を受け、門生は天下に満ちているから、大いに報いを受けている。」家大人は言った。「武器は凶器であり、戦争は危険である。しかし、禍を転じて吉とし、危難を転じて平安とすれば、はじめて国事に救いがある。殺人を逞しくして功績を求めるだけなら、大局にいささかも裨益せず、国家にこの挙があることは必要なく、天地にこの人がいることは頼りにならない。」古人は「軍旅の間では、有益なのは仁恕だけだ。[80]」と言っているが、もっとも味わい深い。漢の飛将軍李広は、投降した羌八百余人を誘殺し、それによって侯を得なかった[81]。広は後に道に迷ったために自殺した[82]。その孫の陵に至り、さらに俘虜となったために、一族皆殺しとなった。昭勇将軍の事と二千余年ではるかに相対し、天はどうして知れないことがあろうか。
◎姚文僖公[83]
湖州の姚秋農先生(文田)は曼雲公[84]の己未の同年であったが[85]、その年の元旦、かれの同じ州の某が夢みてとある役所にゆくと、「状元の掲示が出た。」と喧伝されているのが聞こえた。朱門が開くと、二人の緋衣の吏が二流の黄旗を捧げて出、旗の端にはそれぞれ「人心は欺き易く、天理は欺き難し。」の四文字が綴られていた。目ざめたが、何の言葉か分からなかった。臚唱[86]になると姚が第一であったが、この夢のことを告げる人がいた。先生はしばらく考えると、はっとして言った。「これは亡き高祖父某公の言葉だ。公が皖江[87]で提刑[88]をしていた時、獄の二人の囚人が仇敵に誣告され、死罪に陥れられていた。公はその事件は証拠がないと思い、出獄させようとしたが、仇敵は二千両を献じ、かならず死刑にすることを求めた。公は『人心は欺き易く、天理は欺き難し。金を得て枉げて人を殺すを、天は許さず。』と言い、退けて受けず、結局二人の囚人を獄から出した。旗の端に書かれていたのはこのことではないか。」ああ。法廷の片語でありながら、天が聴いて拠りどころとし、百年後にその遠孫に大科[89]の報いを受けさせたのだ。人命を司るものも、興隆することができるのである[90]。後に先生は官を歴任して大宗伯[91]に至り、諡を文僖といった。
◎彭・荘両家が字を書いた紙を大事にすること
わたしは公車[92]で上京し、はじめてしばしば彭詠莪(蘊章)[93]に会った。詠莪は長兄吉甫[94]と親友であったので、わたしたち兄弟とみな仲が良かった。かれらが代々合格し、江蘇に冠絶していることは、もとより知っていたので、その家が興隆している理由を尋ねると、詠莪は言った。「わたしたち蘇州の彭家と武進の荘家は、世人からいずれも善行を積んだ家と称せられています。雍正丁未科[95]で、わたしの曽祖芝庭公諱は啓豊[96]と武進の荘公名は柱[97]は同房でした。荘さんの母太夫人が夢みますと、三人の神がその試験の鼎甲[98]のことを相談しており、一人の神が言いました。『亡き祖父の陰徳を論じれば、荘は彭と等しいが、本人が字を書いた紙を大事にした点では、荘は彭に及ばない。』一人の神が言った。『それならば、すぐに彭を改めて第一にするのがよいだろう。』臚唱[99]の後、はじめて荘がもともと首席になるはずだったが、芝庭公の第十位が改まって第一位にされたことを知りました。この事は当時人口に膾炙し、荘さんはそのためますます字を書いた紙を大事にすることに専心しました。後に二人のお子さんはいずれも鼎甲に合格しました。長男は方耕侍郎(存与)[100]さんで、乾隆乙酉[101]の榜眼、次男は本醇学士(培因)[102]で、甲戌の状元でした。これがわたしたち両家の、字を書いた紙を惜しんだ報いの確かなものです。しかし世人はそれを察せず、わたしの家はもっぱら文昌を信奉し、筆籙[103]の術を訓練でき、合格に関しては、嚢を探って物を取るかのようなものだと思っています。わたしの家は国初以来、文昌を信奉することは確かにありますが、筆籙の事はほとんど知らず、もともと教訓にすることができるものではありませんので、息子に告げようとしないのです。」思うに彭芝庭尚書は、雍正丁未[104]の会状[105]であるが、その祖南ホ侍講(定求)[106]は、本当に先に康熙丙辰[107]の会状となっており、祖父と孫で会状が相ついだ家は、海内に二つとなかった。その後、ついで及第するものは、なお連綿として絶えず、わたしがよく知るものだけでも、たとえば修田侍郎(希濂)[108]はわが福建で典試したことがあり、葦間太守(希鄭)[109]は、家大人とともに礼部で官となり[110]、遠峰編修(蘊輝)[111]と曼雲公[112]は己未[113]の同年で、詠莪も進士になり、枢直に入り[114]、少京兆[115]に選ばれ、かれの末子はさらに庚子[116]に北闈[117]の副車[118]に合格した。かれの亡き祖父が徳を積むことが深いこと、その報いを受けることが長いことが分かるが、字を書いた紙を惜しんだ一件だけではないようである。
最終更新日:2018年2月22日
[1]http://baike.baidu.com/view/7750070.htm?fromtitle=%E9%98%BF%E5%85%8B%E6%95%A6&fromid=7919533&type=search
[7]http://www.zdic.net/c/a/108/284081.htm会合審理。
[8]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/%25E6%25A2%2581%25E7%25AB%25Ate%25E9%2589%2585&sa=U&ei=5bdKT_yeIMuemQWvvOj_Bw&ved=teCBwQFjAB&usg=AFQjCNEU1fF8yHfmLIG-eJR64IxToOYjxQ筆者の父梁章鉅は軍機章京
[9]http://www.zdic.net/c/a/77/12te868.htm官吏の冠飾。顕貴の比喻。
[12]http://www.zdic.net/c/9/149/323307.htm 刑部・都察院・大理寺を三法司とし、重大案件があれば三法司によって会審した。
[13]http://www.zdic.net/c/3/142/312060.htm冤屈誤審の案件を正すこと。
[16]http://www.zdic.net/c/5/37/84626.htm地方の官員が入朝して帝王に進見すること。
[20]乾隆帝のこと。
[21]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%A1%E4%BC%A6戦略的に重要な地に設けられた軍事的駐在所。
[22]http://www.zdic.net/c/5/4/9314.htm 臣下が皇宮に入り、皇帝が出した問題あるいは質問に回答すること。
[23]http://www.zdic.net/c/c/72/115633.htmひろく高級武官の在外の住所を指す。
[24]http://ctext.org/pre-qin-and-han/zh?searchu=%E4%BB%81%E4%BA%BA%E4%B9%8B%E8%A8%8te%EF%BC%8C%E5%85%B6%E5%88%A9%E5%8D%9A
[26]http://www.zdic.net/c/d/71/113751.htm王朝あるいは君主が賜った恩惠。
[31]http://baike.baidu.com/view/56727.htm宗人府丞。
[32]http://www.zdic.net/c/c/70/111185.htm ともに翰林院で職にあること。館は、館閣のこと。
[35]http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE5ZdicAFZdic92294126.htm天候が寒くなった後、鳴かなくなった、あるいは低く鳴く蝉。
[37]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE6Zdic88Zdic9te66644.htm&sa=U&ei=OnNIT57oGefmmAWM5MT9DQ&ved=teCBoQFjAA&usg=AFQjCNGzYB8zlnv3tkhmttLRSRzHK_7VDAすでに判決せられ批准を待っている、あるいはすでに判決が執行されている刑事案件。
[39]https://www.google.co.jp/?hl=zh-CN&gws_rd=cr,ssl&ei=Ku7MVKuDF9jt8AWon4KwCg#hl=zh-CN&q=%E6%9B%B9%E9%8C%AB%E9%BD%A1
乾隆四十年乙未科殿試金榜参照。
[40]グーグル検索結果。嘉慶四年己未科殿試金榜に名がある。
[43]http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=2&cad=rja&uact=8&ved=teCCIQFjAB&url=http%3A%2F%2Fzh.wikipedia.org%2Fzh%2F%25E9%2592%25B1%25E5%25A4%25A7%25E6%2598%2595&ei=IterKVP3fJYuD8QXH14GYBw&usg=AFQjCNFu-991D3L7en3GwGIMGEbcLogAFQ&bvm=bv.846te7526,d.dGc
[45]後ろに「錫齢は太常公の乙未の同年」とあることから、乾隆四十年乙未科殿試金榜をもとに、梁上國と推定される。
[49]未詳
[50]原文「已與青坡吾家故物同一風」。まったく未詳。
[56]http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=2&cad=rja&uact=8&ved=teCCteQFjAB&url=http%3A%2F%2Fbaike.baidu.com%2Fview%2F3te386.htm&ei=mnBoU-nZK4TEkgXtteYCgBg&usg=AFQjCNGteo9HoOSvuno7ec8IhKiJa8pqYFQ&bvm=bv.66111te22,d.dGI
[57]http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=teCCcQFjAA&url=http%3A%2F%2Fwww.zdic.net%2Fc%2F1%2F1tete%2F27te495.htm&ei=w3BoU9qfMoXAkAWOteYGwCg&usg=AFQjCNGQiteG_PNteY-SssROntfYsswelte9g&bvm=bv.66111te22,d.dGI翰林で誥勅を掌る学士の呼称。
[59]http://www.zdic.net/c/7/78/122958.htm挙人、進士またその本科主考官あるいは総裁官を座主と称する。師座とも称する。
[62]未詳。
[64]http://www.zdic.net/c/1/143/314147.htm子孫が顕貴であることにより封典を受けた人。
[67]未詳だが、苗族の居住地域であろう。『清史稿』に用例多数。
[69]http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=teCBteQFjAA&url=http%3A%2F%2Fzh.wikipedia.org%2Fzh%2F%25E5%25BC%25Ate%25E5%25B9%25BF%25E6%25B3%2597&ei=61PKVJuyIZPx8gWzooCgAw&usg=AFQjCNF_a-JamqgENY4Yh5oOg-2tL2MANQ&bvm=bv.846te7526,d.dGc
[71]未詳
[72]未詳
[77]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE4ZdicB8Zdic8D289619.htm&sa=U&ei=GnpIT9zCHvDGmQWh_IT6DQ&ved=teCBsQFjAD&usg=AFQjCNGrNlDuY7lcteu1DHmN3qdko6JdxMg不善
[78]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE5Zdic86Zdic928te2te4.htm公然として天下が最大の錯誤であると認めることを犯すこと。
[79]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/2/ZdicE5Zdic85ZdicAB6549.htm&sa=U&ei=O3pIT6iaGOTPmAWMs8H3DQ&ved=teCBcQFjAC&usg=AFQjCNGQqnwyn8JYvOYoYRLCSZ7OfterjvA六部の尚書の呼称
[83]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/991591.htm&sa=U&ei=yJxJT4LBN4_MmAXqn_CjDg&ved=teCBMQFjAA&usg=AFQjCNHpxOLirteWGezmCif-8YiyIRpMVw
[85]嘉慶四年己未科殿試金榜を参照。
[86]http://www.zdic.net/c/a/8d/156649.htm進士殿試の後、皇帝に召見せられ、甲第にしたがって名を唱え、呼び出しすること。
[87]http://baike.baidu.com/view/117te557.htm蕪湖、安慶、池州、銅陵、宣城、滁州と馬鞍山。
[88]http://baike.baidu.com/view/59798.htm。官名。提点刑獄公事の簡称,あるいは提点刑獄と称する。
[90]原文「司民命者、亦可以興矣。」。「興」が未詳。とりあえず、こう訳す。
[92]http://www.zdic.net/c/c/1C/43492.htm 挙人が会試を受験すること。
[95]http://zh.wikipedia.org/wiki/Template:%E9%9B%8D%E6%AD%A3%E4%BA%94%E5%B9%B4%E4%B8%81%E6%9C%AA%E7%A7%91%E6%AE%BF%E8%A9%A6%E9%87%91%E6%A6%9C
[99]http://www.zdic.net/c/a/8d/156649.htm進士殿試の後、皇帝に召見せられ、甲第にしたがって名を唱え、呼び出しすること。
[100]http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=teCBteQFjAA&url=http%3A%2F%2Fzh.wikipedia.org%2Fzh%2F%25E8%258E%258A%25E5%25AD%2598%25E8%2588%2587&ei=dOfKVMb1DIjh8gXJpIGIAQ&usg=AFQjCNEXKVoWqPTV5OtrIIYZZdSSGGJu5Q&bvm=bv.846te7526,d.dGc
[102]http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=teCBteQFjAA&url=http%3A%2F%2Fzh.wikipedia.org%2Fzh%2F%25E8%258E%258A%25E5%259F%25B9%25E5%259B%25Ate&ei=7OfKVIi5ItHd8AWp-YII&usg=AFQjCNHBJrk6awhLABkWD6Zn_1DvLs_z5A&bvm=bv.846te7526,d.dGc
[103]原文同じ。まったく未詳。妖術のようなものか。