金水橋陳琳抱妝盒雑劇
楔子
（冲末が殿頭官[1]に扮し、校尉を連れて登場、詩）君上は起くること早ければ、臣下は起くること早し。朝門[2]に来れど天は暁けやらず。長安の多少の富豪の家、明星を知らざるままに老いゆける。
それがしは殿頭官。今、大宋は真宗皇帝さまの御代、山河は一統せられ、万国は来朝し、主上は聖く、臣下は賢く、民は豊かで、国は富んでいる。天子さまはご即位以来、太子がないため、お心はつねに楽しまない。昨日、太史官王宏が上奏したが、夜に乾象[3]を観たところ、太子前星[4]がたいへん明るかったとのこと。今は春の末つ方、百花は満開、まさに胎児ができる時だ。尚宝司[5]に命じて金の弾丸一つを造らせ、三月十五日に天子さまみずからが御園に行かれ、東南の方角に弾を打たれたら、六宮の妃嬪らに探させることにしよう。金の弾丸を拾った者のもとへ、御幸することにすれば、きっと賢いお世継ぎを得られよう。天子さまは上奏を受理したまい、宮中に出入りする内使[6]陳琳に命じて六宮に伝えにゆかせることとなされた。人を遣わし陳琳を呼んでくるのだ。
（校尉）陳どのはどちらかな。
（正末が陳琳に扮して登場）わたくしは姓は陳、名は琳といい、今は宋朝の宮中に出入りする内使となっている。ずっと貴人の側にあり、朝廷に仕えてきたため、ありがたい聖恩により、一着の海馬[7]の蟒衣を賜わって、一本の紋犀[8]の玉帯を締め、金絲で織った帽子を戴き、鴉鶻石[9]を嵌めている。一本の鑌鉄で作った刀を懸けて、鸂鶒木[10]を嵌めている。鵷班[11]豹尾[12]にお供したことはないが、つねに鳳輦[13]龍床[14]にご奉仕している。本日は殿頭官が人を遣わし、招いているが、何事だろうか、会いにゆかねばならぬわい。（見える）
（殿頭官）陳内使どの。呼びにきたのは、ほかでもない。聖上は太史の上奏をお聴きになり、明日みずから御園に行かれ、金の弾丸をお打ちになる。妃嬪で弾を拾った者は、その宮殿に御幸があるから、きっと聖嗣を得るであろう。六宮に伝えよ。明日はみな御園へ金の弾丸を捜しにゆけと。拾った者は、すぐに奏聞させ、遅滞ないようにするのだ。
（陳琳）かしこまりました。（古門に向かう）三宮六院の、妃嬪綵女のみなさま、お聴きください。明日聖駕はしたしく御園へ赴かれ、金の弾丸をお打ちになります。金の弾丸が落ちた処で、拾ったお方が、それを御前にお納めすれば、聖駕はすぐにその宮殿にお行きになります。ぐずぐずされてはなりませぬ。（振り返る）すでに勅旨をお伝えしました。
（殿頭官が唱う）
【仙呂端正好】勅旨を奉じ、君命を伝へ、春の景色は囲屏に描くに堪へたり。御園には、錦繍のごとく花は盛んに咲きたれば、巡遊の興を動かせり。
【幺篇】六宮の人々に厳令を知らしめよかし。
（言う）この金の弾丸は、
（唱う）弾が落つればおのおのが謹みて、手分けして芳はしき径を穿ち、じつくり捜し、はつきり認めよ。金の弾丸を捧げて、彤庭[15]に献ずべきなり。その夕寝につかば、前星の験あるべし[16]。その時はながく団円し、万万載ともに喜ぶことならん。（退場）
（正末）殿頭官は行ってしまった。わたしはひとりで御前へ行ってお世話しよう。まさに「昼漏は稀に聞く高閣の報せ、天顔に喜びあれば近臣は知る[17]」。（退場）
第一折
（正旦が李美人に扮し登場、詩）柳葉は参差として画楼を掩ひ、暁鶯は啼き満宮を愁へしめたり。年ごとに花は落つれど見る人はなく、春泉にむなしく従ひ御溝を出でり。
わらわは西宮の李美人。今日は聖上が御園で金の弾丸をお打ちになり、宮女綵女に命じて、金の弾丸が落ちた処で、それを探させる。拾った人が、すぐに御前に献じれば、寵幸せられるとのことだ。各宮殿の妃嬪たちは、行く準備をしているから、わらわも御園へ行かねばならぬ。（退場）
（末が聖駕に扮している。二旦が宮女に扮し符節を執っている。二外が内官に扮し払子を執り、殿頭官とともに登場）
（正末が弾弓を捧げて従う）聖駕はすでに御園にお行きになりました。
（駕）見るがよい。御園には千万の紅や紫、鶯は囀り、燕は啼いている。よい景色だぞ。
（正末が唱う）
【仙呂点絳唇】そのかみ文武は宴に登り、帝王は金鑾殿[18]に宴を設けり。恩賜せられし樽の前にて、弦管を奏づるは仙音院[19]。
【混江龍】しかれどもなほ堅苦しき嫌ひあり。御園は別の一壺天。ともすれば梨花の院宇は侘しからんとし、楊柳の亭軒は寂しからんとす[20]。昨宵暮雨に梨花は艶めき語ることなく、今朝春風に楊柳は綿を乱れ飛ばしたり。鑾輿に駕してひねもす還ることを思はず、園林のいたる処にあまねく遊べり。
（跪き、弾弓を渡す）この八角の亭は、まさに東南の方角でございますから、金の弾丸を打つのに宜しゅうございます。
（唱う）弾は去ること暁星のたちまち落つるかのごとく、弓は張ること秋月のはじめて円かなるかのごとし。
（駕）寡人は弾弓を手に持ち、鳥たちを見る。かれらを打とうとすれば、かれらも驚き恐れよう。
（殿頭官）陛下、「蠢動する含霊[21]は、すべて仏性あり[22]」とはよくぞいったもの。
（正末が唱う）
【油葫蘆】いともせはしく垂楊に杜鵑は啼きて、ばたばたと両の翅を動かせり。梨花の枝に鴝［谷鳥］[23]は巡り、脅ゆれば錦鳩[24]は酴醿[25]を離れず出つ入りつし、驚けば黄鶯は梧桐を繞り囀れり。あるものは葉の下に潜りて隠れ、あるものは枝の上に坐して鳴きたり。など池塘に近づくも泥を含める燕を見ざる。すべて金水玉溝[26]の辺にぞ落ちつきたりける。
（跪く）陛下、今日はきっとおめでたいことがございましょう。
（駕）寡人は今日、はじめて園の中に来て、春の景色を愛でている。かならずやめでたいことがあると申すが、その喜びはどこからやってまいるのだ。
（正末が唱う）
【天下楽】ただ見るは、喜鵲のかちかちと噪しく御前を過ぐる。わたしは思へり、この霊禽は、まことに時宜を弁へたりと。なにゆゑ花の茂みを棄てて春を顧みることのなく、花萼の楼で鶯の音に背き[27]、錦樹[28]の園で燕の声を隔つる[29]。かれはなどかはこの麗らけき三月の日を徒にせん[30]。
（駕）見よ、あの酴醿の棚に、錦鳩が一羽いて、寡人の弾を待っているから、あの錦鳩を打つとしよう。（弾を打つ）
（正末が唱う）
【那吒令】先ほどは水平に弓を引き[31]、酴醿の棚の辺めがけて、まつすぐに弾を放てり[32]。そはまさに芍薬の欄の近く。弾は飛ぶこと遠からず、牡丹の叢の中に在り。
（駕）陳琳よ、弾を捜しにいってくれ。
（正末）かしこまりました。
（唱う）弾を捜すは難きなり、諺に言ふ、弾は三たびまろぶとぞ[33]。
（正末が弾を捜し、唱う）
【鵲踏枝】今、海棠の軒を過ぐれば、緑の楊は煙を散ぜり[34]。そろそろと径に満つる蒼苔と地に布ける楡銭を払へり。こなたでは一歩進めば一枚の扇面を描くべけれど[35]、丹青の巧みな筆があらんとも伝ふることは難からん。
（言う）この広い御園の中で、あの金の弾丸はどこに落ちたやら。
（李美人）わらわは李美人、御園の東に立っていたのだが、はからずも金の弾丸がわらわのところに飛んできたので、拾いあげた。隠さずに、御前へみずから献じにゆこう。
（正末が美人を見る）李美人さまがいらっしゃったぞ。（唱う）
【寄生草】ただ見る、かれの嬌滴滴[36]たる顔は玉に似、薄鬆鬆[37]たる鬢は蝉に似、眼は緑澄澄としてうるうると秋波を送り、眉は曲弯弯としてあはあはと双蛾[38]を描き、顔は汗津津として桃花を顕はす。昭陽宮[39]の粉黛美人図ならずんば、落伽山[40]の水月観音[41]が現れたるかと思はんとせり。
（言う）李美人さま、金の弾丸を見られましたか。
（李美人）こちらで金の弾丸を拾いましたので、持ってまいったのでございます。
（正末）ほんとうでしょうか。李美人さま、あなたは福がおありです。
【金盞児】あなたはとても心が堅く、金の弾丸もあたかも縁が多きなり。思ふに天公は人に便宜を与ふることを好みたまへば、李美人と聖上をながく団円せしめたるなり。これこそは、地では連理の樹と成りて、水に入りては並頭の蓮となるなれ。さいはひに、比翼の鳥は驚かされて離るることなく、錦紋[42]の鴛は打たれて散ずることぞなき。
（跪く）李美人が金の弾丸を拾い、聖上に献じにきました。
（駕）かれを呼べ。
（李美人が入って見える）
（殿頭官）李美人さまは麗しいお顔で、福分がおありだから、後日かならず太子をお生みになるだろう。
（駕）金の弾丸は誰が拾ったのだ。
（李美人）わらわが拾ったのでございます。
（駕）それならば、今晩すぐに西宮に行くとしようぞ。
（李美人が聖恩に謝する）
（駕が李美人の手を引いてともに退場）
（殿頭官らが従って退場）
（正末）聖駕は西宮に宴しにゆかれた。李美人さま、あなたはまことに福分がございます。（唱う）
【賺煞】これよりは鳳楼[43]に会ふことを思ひて、羊車をな羨みたまひそ。本日はありがたき聖恩により、劉皇后は恩愛からは隔たれば、独宿孤眠することはなからん[44]。このやうに美はしく纏綿として、あたかも神仙のごときなり。これよりは、宮門に倚り、過ぐる輦を聴くことはなし。李美人に上苑で逢ひ、宋真宗は別の寝殿へと登りたまへり。もとよりこれは一対の良き姻縁なり。
（言う）劉皇后がこれを知ったら、
（唱う）むりやりに悪しき姻縁となすべけん。（退場）
第二折
（旦が劉皇后に扮して登場）わらわは劉皇后。絶世の美人ではないものの、さいわいに中宮を管理して、九重の寵を得て、万年の福を受けている。近頃、西宮の李美人が一子を生んだとか。李美人はやがて天子さまのもとで、わたしの寵を奪うだろう。こうするしかない。寇承御はどこにいる。
（旦児が寇承御に扮して登場）おりまする。（叩頭する）
（劉皇后）寇承御よ、尋ねるが、おまえが食べているものは誰のものだえ。
（承御）皇后さまのものでございます。
（劉皇后）おまえが着ているのは誰のものだえ。
（承御）皇后さまのものでございます。
（劉皇后）わたしが東へゆけといったら、おまえはゆくかえ。
（承御）すぐに東へまいります。
（劉皇后）わたしが西へゆけといったら、おまえはゆくかえ。
（承御）すぐに西へまいります。
（劉皇后）わたしが命じなかったら。
（承御）皇后さまのお側に立っておりまする。
（劉皇后）それならば、おまえはわたしの腹心だ。一つ大事な事があるから、わたしのためにしておくれ。
（承御）いかなるご用にございましょう。
（劉皇后）こたび、西宮の李美人が一子を生んだ。おまえはかれの宮殿へゆき、陛下が会おうとしていると偽って、宮殿を出てこさせ、あの子供を、裙刀[45]で刺し殺すか、摟帯[46]で絞め殺すかし、金水橋の河に棄てるのだ。仕事を終えたら、わたしに報告しにくるのだよ。
（承御）つつしんで御諚を承りました。宮門を出て、まっすぐに西宮に行き、李美人さまにお会いしましょう。
（詩）御諚をしたしく承りて西宮に行く、生くるも死ぬるも手の中にあり。この謀略は並大抵のものにはあらず、誰によりてか小潜龍を救ふべき。（退場）
（劉皇后）寇承御が行けば、かならずや大事を成就してくれよう。その時は李美人は寵を失うことだろう。寂しい宮殿に送り込み、ゆっくりとかれの命を害することに、何の難しいことがあろうか。
（詩）わたしはもとより女菩薩なれど、殺人を戒めしことぞなかりし。草を剪るときいささかの根を帯びば、萌芽はふたたび発すべし。（退場）
（承御が太子を抱いて登場）さいわいに太子さまをすでに西宮から出した。劉皇后さまの御諚を奉じて、ほんとうは裙刀で太子さまを刺し殺し、金水橋の河に棄てようとしていたが、紅い光と紫の霧が、太子さまのお体を覆っていたため、手を下すことができなかった。ああ。宋朝が跡継ぎを欠く定めではなく、人が来て、ともに太子さまのお命を救うことができれば、やがてわたしの忠心も明らかになり、良いことなのだが。
（正末が妝盒を抱いて登場）わたしは陳琳。陛下はわたしに黄の封をした妝盒を賜わり、後花園へ行き、旬の果物を採り、南清宮[47]の八大王さまの誕生祝いをしにゆけとのこと。わたしは内官[48]だが、文武の役人たちよりも国に報いる忠心がある。（唱う）
【南呂一枝花】三台[49]の玉佩の臣とは同じからざれど、今、六院[50]の金釵の客を掌りたり。鶏の鳴き宮禁の開くをつねに待ち、龍繞[51]を取り巻けば聖顔は笑みたまひたり。将相の才などはなく、歩輦[52]に従ひ君王に愛せられ、伝宣[53]を聴き后妃に使はれたるにぞ過ぎざる。美孜孜[54]たる八百の臙嬌[55]を司り、艶亭亭[56]たる三千の粉黛を守りたり。
【梁州第七】これこそは大宋朝の皇宮御闕。神仙の島、閬苑[57]と蓬莱に劣ることなし。鬱巍巍[58]とした龍楼と鳳閣はあたらしく建造せられ、金釘朱戸、玉砌瑶階、祥雲瑞靄、紫霧香埃、眼は眩み、開くことこそ難きなれ。人力の造りしものにはあらざらん。おしなべて、錦繍と翡翠の簾櫳[59]、朱漆と虬鏤[60]の亮槅[61]、碧琉璃と碾玉[62]の亭台。上命により、朝な朝な丹墀[63]の側を離るることなく、禁門の外に出ることなし。宮中に出入りする入殿牌[64]を帯びずとも、行く処、誰かは怪しむことあらん。
（望む）あの金水橋のたもとで、背を向けて立っているのは、ほんとうに寇承御のようだ。一声呼ぼう。寇承御どの、
（承御が振り返って見る）おやおや、陳さま、なにゆえこちらに来られましたか。
（正末）陛下の御諚で、黄の封をした妝盒を賜わり、後花園へ行き、旬の果物を採り、南清宮の八大王さまの誕生祝いをするのです。寇承御どの、なにゆえこちらに来られましたか。
（承御）この金水橋のたもとにきて、遊んでいるのでございます。
（正末）ああ、おんみはどこからこの赤ん坊を抱いてこられた。
（承御）何が赤ん坊ですか。失礼な。
（正末）失礼なとは。太子さまなのでしょうか。
（承御）太子さまでなければ誰でございましょう。
（正末が唱う）
【隔尾】承御どの、中宮の侍女のおんみはな怒りそ。内使の陳琳は私用で来るにはあらず。
（承御）もちろん私用でいらっしゃったのではないでしょう。わたしももちろん存じております。
（正末が唱う）承御どの、どうしてひたすら巧みな言葉でみづからを覆ひ隠せる。
（承御）隠しごとをしているのではございません。計略をいそいで思いくことができないだけでございます。
（正末が唱う）ああ、今は計略はなし。承御どの、賢さをひけらかすにはあらざれど、ああままよ、あなたは心が平らかならば海を得渡らん[65]。
（承御が慌てる）
（正末）承御どの、何を慌てていらっしゃる。他人の赤ん坊なのですから、金水橋の河に棄てればよいのです。
（承御）他人の家の赤ん坊だと仰いますが、このかたは西宮の李美人さまがお生みになった太子さま。
（正末）李美人さまがお生みになった太子さまなら、どうして抱いて宮中から出てきたのです。
（承御）むかし陛下は太史官の上奏を聴き、三月十五日にみずから御園へ赴かれ、金の弾丸をお打ちになり、あなたに勅旨を伝えさせ、六宮の妃嬪でこの弾を拾った者があったときには、聖駕はその宮殿に御幸することになさったのですが、西宮の李美人さまが弾を拾われたため、今回はたして太子さまをお生みになったのでございます。このことはご記憶でございましょう。太子さまの胸をご覧なさい。まさにその金の弾丸を抱いてらっしゃる。
（正末が見、驚く）太子さまだ。陛下に奏上しにゆくべきなのに、抱いてこちらにやってきたのはいったいなぜだ。
（承御）劉皇后さまは嫉妬の心を逞しくされ、李美人さまがやがて寵愛を奪うことを恐れられ、わたしに命じて太子さまを宮中から出し、裙刀で刺し殺し、金水橋の河に棄てさせようとなさったのでございます。ところが紅い光と紫の霧が太子さまのお体を覆っており、あきらかに真命天子[66]でしたので、手を下そうとしなかったのでございます。わたしは天に祈りました。宋朝に跡継ぎがないべきでないなら、忠義の心を持つ人に遇い、ともに太子さまのお命を救いたいと。今さいわいに公公[67]に出くわしました。どうか計略を考えだし、ともにこの太子さまをお救いしましょう。
（正末）承御どの、そのように劉皇后さまを恐れてらっしゃるのですか。
（承御）もちろん恐れておりまする。
（正末）あなたが恐れているならばわたしも恐れているのです。ほんとうに、「他の人の悲しみは、わたしとは関はりはなし。関はらば、避くべきなり」です。それはあなたの仕事です。わたしは果物を採りにゆきます。（走る）
（承御が叫ぶ）陳琳さま、
（正末が戻る）どうしてひたすらわたしの名前を呼ぶのです。
（承御）もちろんあなたの名前を呼びます。わたしは今から太子さまをお抱きしながら劉皇后さまにお会いしにゆきましょう。あのかたはきっとわたしになぜまだ活きているのだとお尋ねになるでしょう。わたしは、まさに手を下そうとしましたが、陳琳に遮られました、陳琳は陛下に奏上しようとしています、と言いましょう。
（正末）おかあさま[68]。その一言で、わたしは殺されてしまいます。
（承御）慌てないでください。いっしょに計略を考えて、太子さまをお救いしましょう。
（正末が背を向ける）このひとを騙すとしよう。（振り向く）承御どの、一言言って宜しいですか。
（承御）とにかく仰ってください。
（正末）劉皇后さまがあなたに命じて太子さまを殺そうとなされたのなら、あのかたの言ったとおりになさいまし。わたしが見張りをしてあげましょう。太子さまを刺し殺し、金水橋の河に棄てれば、さっぱりとすることでしょう。
（承御）陳どの、それはまずいでしょう。
（正末）まずいことはございませぬ。
（承御）それならば、見張りしにいってください。わたしは手を下しましょう。
（正末が見る）
（承御が妝盒を開け、太子を置く）
（正末が振り向いて尋ねる）太子さまはどこにいらっしゃる。
（承御）河に棄てました。
（正末が左右を見る）なぜ見えないのでしょう。
（承御が妝盒を指す）この盒[69]の中に棄てました。
（正末）それはまずいでしょう。
（承御）わたしがおります。事が起こればすべてわたしが引き受けますから、ご安心なさい。
（正末が盒を開いて見、唱う）
【牧羊関】盒に置き、懐に抱かんとはせず。わたしはまさに殺人の場より逃れり。劉皇后さま、あなたは海のごとくに闊き怨みを結びたまひたり。陳琳よ[70]、おまへは天のごとくに大なる責務を担へり。太子さま、腰を曲げ、動かすことこそ難からめ。腿を曲げ、いかでかは伸ばすべき。主君を救ふわたしはむなしく苦労せり。太子さま、あなたはまことに「人と成ることは容易きことにはあらず」。
（寇承御が盒に向かって拝礼をする）（唱う）
【隔尾】太子さま、双龍紫闕[71]と比べて低く、五鳳丹楼[72]と比べて狭く、一合乾坤[73]と比べて小さし。これこそは潜龍の世界なれ。皇朝の後の世に関はりあれば、江山を万万載護りたまへかし。
（承御）陳どの、ぐずぐずしてはなりませぬ。はやくこの妝盒を八大王さまの処に送ってゆけば、おのずと処置がなされましょう。はやく行かれませ。はやく行かれませ。（戻る）
（正末が引き止める）承御どの、一言はっきり言っておきます。わたしは今、太子さまを宮中から救い出してゆきますが、いつの日か事が露顕したときは、承御どの、わたしを巻き添えにしないでください。
（承御）諺に申します。「忠臣は死を恐れず、死を恐るるは忠臣ならず」と。わたしは潜龍をお護りする掌命司[74]、どうしてあなたを巻き添えにいたしましょう。前言を違えたら、天は蓋わず、地は載せず、日月は照臨しないことでしょう。陳どの、あなたははやく太子さまを宮中から救い出していってください。わたしはひとりで劉皇后さまにご報告しにゆきましょう。（退場）
（正末）あなたは「忠臣は死を恐れず」と言い、潜龍をお護りする掌命司だとも仰った。この二句はお経の版木のように心に刻み込まれました。しっかり憶えておきましょう。（見る）ああ、寇承御は行ってしまった。（盒を開いて見る）ああ、寇承御は三束に髪を梳き、ツーピースを着る女流の輩でありながら、あのような忠心があろうとは思わなかった。かれは太子をわたしに渡し、劉皇后さまにご報告しにいった。わたしも急がなければならない。（唱う）
【牧羊関】妝盒を抱きしめたるは、愁への布袋を抱きたるなり。宮門に行かざるに、はやくも憂へてわたしの頭は白くなりたり。盒子の裏に隠せるは儲君、わたしが肚の中に懐くは鬼胎なり。朝廷で横禍には遭はざれど、盒子には飛災[75]を隠せり。承御どの、あなたはにこにこ、笑顔を作り、戻りゆけども、わたしはびくびく、災厄を手に持てるなり。
（眺める）向こうから人が来たから、ひとまず垂楊の下に隠れよう。
（劉皇后が宮女を連れて突然登場）おのが語を他人に語ることなかれ、他人の心はおのが心と同じと限らざればなり。
あの寇承御に、大事な仕事をしにゆかせたが、行って小半日してからようやく報告しにきた。すでにきちんと仕事をしたというのだが、心の中でいまだに信じることができない。今から金水橋の河のほとりへみずから見にゆくことにしよう。なにか動きがあれば、事情が知れよう。（見る）垂楊のところにいるのは、陳琳ではないか。一声呼ぼう。陳琳よ、
（正末が慌てる）劉皇后さまがわたしをお呼びだ。おしまいだ。（唱う）
【賀新郎】かれは凶悪なるさまでひとり来れり。太子さま、あなたは七宝盒子の中にいませども、陳琳ははやくも魂が九霄雲外にぞ飛べる。小儲君よ、盒子の裏にてしばしのあひだ耐へたまへかし。すこしでももがきたまはば、たちまちわたしは屍骸を粉砕せらるべし。あなたのために、わが身ははやくも戦きて、脚は萎え、抬ぐることこそ難きなれ。狗が湯に触るるがごとく進まんとせず。やうやく脚を動かせば追命府[76]へと臨むかのやう。一歩進めば摂魂台[77]に上るかのやう。
【隔尾】わたしに差し障りがなくば、あなたにも差し障りなかるべし、わたしに患へがあるならば、あなたにも患へがあるべし。わたしの命が活くるを得なば、あなたの身をぞ留め得ん。
（言う）あの劉皇后さまは、
（唱う）眼色をひそかに見、性格を忖度するに、太子さま、屍骸を全うするを得ば御の字ならん。
（盒を置いて見る）
（劉皇后）陳琳よ、どこへゆくのだ。
（正末）わたしは後花園へ行き、旬の果物を採ってきたのでございます。
（劉皇后）ほかに公務は何もないのか。
（正末）ほかには何もございません。
（劉皇后）それならばお行き。
（正末が盒を捧げていそいで走る）
（劉皇后）ちょっと戻っておいで。
（正末が戻り、盒を置き、跪く）皇后さま、いかなるご用にございましょう。
（劉皇后）こいつめ、行けと言ったら、弩の箭が弦を離れるように、はやく走って、戻ってこいと叫んだら、毛氈の毛を引くように、ぐずぐずするとは。きっと疚しいことがあるのだろう。陳琳よ、尋ねるが、東果園、西果園、南果園、北果園いずれにも果物があるが、いったいどの園で採ったのだ。果物は何という名だ。正直にお言い。本当のことを言えば、万事何事もないが、嘘を言えば、許しはしないよ。
（正末）皇后さま、お怒りをお鎮めになり、くわしくお話しするのをお聴きくださいまし。（唱う）
【紅芍薬】御園に百卉は咲き競ひ、巍巍とした樹々は栽培せられたり。東君[78]が愛しみ甘沢[79]を降したまへば、種を結び、実を成せるなり。
（劉皇后）どちらで摘んできたのだえ。
（正末が唱う）あたかも母の肚から摘みきたるがごとし。
（劉皇后）どんな色だえ。
（正末が唱う）生まれつき色は紅白。
（劉皇后）なぜ盒に入れたのかえ。
（正末が唱う）日に晒し、風に吹かせることを得ざれば、特にこの黄の封をした盒子を賜ひて収めしめたり。
（劉皇后）当ててみよう。石榴ではないかえ。
（正末が唱う）
【菩薩梁州】石榴は金の階で育つなり[80]。
（劉皇后）核桃かえ。
（正末が唱う）宮殿の外へ逃れ出づべし[81]。
（劉皇后）梨かえ。
（正末が唱う）今晩は後宮を離れたり[82]。
（劉皇后）李かえ。
（正末が唱う）この玉皇李[83]は苦みが尽きて甘みが来れり。天然の異種、出群の材なれば、咲く時は遊蜂の採るを許さず、摘む時は君王の戴くことを願ふなり。
（劉皇后）李にはよいところなどないのに、陛下が好んでいらっしゃるとは。樹をすべて伐ってしまおう。
（正末が唱う）皇后さま、あやにくにあなたは心悪しきなり。片片たる残紅の碧苔に落ち、古き木と崩れし崖に伴ふを見るに忍びず。
（劉皇后）陳琳よ、おまえの巧言令色は聴くにたえない。盒子を開けて、はっきり見よう。余計なものがなければはじめておまえを出てゆかせるとしよう。
（正末）この妝盒には余計なものはございません。（唱う）
【罵玉郎】蘇秦のやうに巧みな口があらんとも、わたしがこちらで弁明すればかれはあちらでますます疑ふ。諺に言ふ、脱空[84]は所詮破るるものなりと。
（劉皇后）盒子を取ってきておくれ。開けて見ることにしよう。
（正末が手で盒子を押さえる）皇后さま、この盒の蓋は開けられませぬ。御筆の黄の封がございますから、皇后さまとごいっしょに陛下のもとに行き、直接にお話ししてから、はじめて盒子の蓋を開いて見ることができるのでございます。
（劉皇后）御筆の黄の封など構わない。開けて見てみよう。
（正末が押さえつけ、唱う）わたしはいかに手を打たん、わたしはいかに手を打たん。開けんとしたまふ、開けんとしたまふ、妝盒の蓋。
（劉皇后が怒る）陳琳よ、盒子を開けて見せないのなら、わたしがみずから手を下そうか。
（正末が唱う）
【感皇恩】ああ、皇后さまは進みいづれば、陳琳は死罪となるべけん。
（劉皇后）虚実を弁じ、真偽を見、はっきりと調べたいのだ。
（正末が唱う）虚実を弁じ、真偽を見、はつきりと調べんとしたまへり。
（寇承御があわてて登場）皇后さま、お戻りください。聖駕が中宮に御幸し、宴が開かれます。
（劉皇后）陳琳よ、ちょうど良かったね。聖駕が中宮に御幸しなかったら、おまえを出てゆかせはしなかった。明日になったらこのように果物をたっぷりと盒子に入れて、わたしの宮殿に送ってくるのだ。（ともに退場）
（正末）かしこまりました。
（唱う）承御は慌てて聖旨を伝へ、皇后さまをすぐに戻つてゆかしめたりき。寝殿に鑾輿はましまし、御宴をば開かんとしたまひたりと。
（盒を捧げる）（唱う）
【採茶歌】一つには鬼神のご差配、二つにはこの赤子をば救はんがため。誰か思はん、ひらひらと九天より一枚の赦免状が飛びきたらんとは。陳琳よ、刀刃の上で螻蟻が命を全うするがごときなり。太子さま、釣竿の先より巨鰲が腮を脱するかのごとし。
（言う）さきほど劉皇后さまにしばらく纏わりつかれたが、太子さまは声をお出しにならなかった。窒息死なさったのかな。盒子の蓋を開けて見よう。（跪き、掲げて見る）ありがたいことに、太子さまはお眠りになったばかりで、盒の中で腰を伸ばしていらっしゃる。（唱う）
【二煞】小儲君は盒子の中でいと安らかにしたまへり。わたしのしがなき命は針の穴を抜けたり。楚王の屋敷にいそぎ走れば、一縷の塵埃は漂へり。濯龍門の側に行かんとし、二歩を一歩にす。
（言う）南清宮の八大王さまにお会いしたとき、
（唱う）玉顆[85]神珠[86]として掌上に抬げたまはば、わたしははじめて安心すべし。
（言う）さいわいに宮中を出た。胆を太くし何歩か進もう。（歩く）（唱う）
【黄鍾尾】九重の囲み、連環寨を跳び出て、十方に伏兵を置く修羅場より抜け出でり。蛟龍を走らしめ、大海に投ぜしめ、彩鳳を逃れしめ、天外に飛ばしめん。小儲君よ、まことに驚きたまひけん。劉皇后さま、などかは許したまふべき[87]。たとひ蛇蝎の心なりとも、かくも凶悪にはあらず。太子さまを持ち上げて、あの花斑石[88]の殿階めがけて、ああ、皇后さま、あなたは子供を持ち上げて、階に投げつけんとぞしたまへる。（退場）
楔子
（外が楚王に扮し、官校[89]を連れ、錦衣花帽[90]で登場、詩）封土はあれど帝城を出しことなし、早朝[91]するに静鞭[92]の声を欠きたり[93]。懐中に黄金の鏈を賜はり、千官の胆をひそかに驚かしめたり。
それがしは楚王趙徳芳、今上の実の弟、世人が南清宮八大王と称している者だ。身は王位にあるが、心は天朝にある。賢士を鳳麟のように貴び、奸邪を蛇蝎のように遠ざけている。兄上はわたしに金の鏈を賜わり、不忠の輩を打たせている。わたしはつねに袖に入れ、携えて出入りしている。そのために朝廷にいる官員たちは、わたしを見ればみな心胆を寒くするのだ。今日の朝、宮殿に戻り、この独角亭に閑坐して、とりあえず誰が来るかを見るとしよう、
（正末が妝盒を抱いて登場）太子さまを救い出したが、行く場所は一つしかない。南清宮の八大王さまは、太子さまの実の叔父君、太子さまを引き取って、育てあげることができよう。こちらはまさに楚王府の入り口だ。門番よ、取り次いでくれ。宮中に出入りする内使陳琳が、陛下の御諚を奉り、旬の果物を献じにまいりました、大王さまのお誕生祝いをいたしますとな。
（官校が報せる）大王さまにお知らせ申し上げまする。宮中に出入りする内使陳琳が勅旨を奉じて、お誕生祝いにまいりました。
（楚王）通してくれ。
（官校）ゆかれませ。
（正末が入って叩頭する）大王さま、千歳[94]。
（楚王）妝盒にはどのような旬の果物があるのかな。
（正末）陛下は大王さまの誕生祝いをなさるため、黄の封をした妝盒を賜わり、陳琳に後花園へ行き、果物を採るようにお命じになったのでございます。重大な事件にたまたま遇いましたので、わざわざお報せしにまいったのでございます。果物はまだ採っておりませぬ。
（楚王）どういうことだ。
（正末）大王さま、西宮の李美人さまが太子をお生みになったため、劉皇后さまは嫉妬の心を抱かれて、宮女寇承御にお命じになり、太子さまを宮中から出してこさせ、裙刀で刺し殺し、金水橋の河に棄てようとなさいました。寇承御は紅い光と紫の気が太子さまのお体を覆っているのを見たために、手を下そうとはしませんでした。たまたま陳琳が後花園へ行くのに出くわし、二人して相談し、太子さまをいっしょに救うことにしたのでございます。黄の封をした妝盒にお収めし、宮殿を出てまいりましたが、行く場所はこちらしかございませぬ。大王さまは太子さまの実の叔父御でございますから、引き取ることができましょう。（盒を開き、跪く）ただ望むらくは大王さまが陛下のお顔に免じて、しっかり育て上げられることにございます。後日天下をお治めになるときは、大王さまのご功績になりましょう。
（楚王）陳琳よ、おまえはさように劉皇后を恐れているのか。
（正末）もちろん恐ろしゅうございます。
（楚王）おまえが恐ろしいのならわたしも恐ろしいのだぞ。わが屋敷では断じて引き取ることはできない。元通りこの盒子を持ってゆけ。
（陳琳）大王さま、それは間違っていらっしゃいます。
（楚王）陳琳よ、わたしがどうして間違っている。
（正末が太子に跪き、唱う）
【仙呂賞花時】大王さま、あなたはまさに血を分けた実の叔侄、誰に万里の江山[95]を托すかを思ひたまはぬはずはなからん。
（言う）大王さま、お収めになりませぬなら、
（唱う）わたしは太子さまを抱き、階にぶつからんのみ。
（楚王）陳琳よ、待て。わたしは玉葉金枝[96]であるから、劉皇后を恐れるものか。先ほどはおまえをからかったのだ。太子さまを抱いてきて、見せてくれ。（太子を受け取る）見よ。この子は生まれつき龍顔[97]鳳目[98]、後日かならず太平の天子となろう。ありがたい。わが宋朝には福分があり、男女二人の忠臣が、太子さまをお救いし、わたしの屋敷に来させてくれた。校尉よ、はやく宮人に命じにゆくのだ。乳の出るものを選んで、太子さまをしっかりと養わせるのだ。太子さまが生長し、ご成人あそばされたら、わが宋朝の跡取りとなられよう。二人の忠臣の好意を無にしてはならぬ。
（官校が太子を抱いて退場）
（正末が叩頭して感謝する）
（唱う）このたびは、先に憂へて後に喜ぶ、
（言う）陳琳は妝盒を持ってゆき、あらためて果物を採ってきてお誕生祝いをいたしましょう。
（唱う）妝盒を抱き、死を冒し、宮闕を出でたることも徒にはならず。
（楚王）陳琳は行ってしまった。陳琳は君主を救い、皇恩に報いようと考えたから、尋常の宦官のともがらではないだろう。寇承御は宮女だが、さらに得難い。ひとまず太子さまを引き取り、お育てし、十年を経て、ゆっくりと兄上に上奏すれば、かれら二人の忠心を埋もれさせることもあるまい。
（詩）さいはひに宮臣は潜龍を救ひたり、わたしは実の叔父なればいかでかは苦しみを辞すべけん。十年を経て聖上に上奏をせば、劉皇后をいたく恥ぢ入らしむべけん。
第三折
（駕が劉皇后ともに内官、綵女[99]を連れて登場、詩）日月は天徳を光かし、山河は帝居を壮んならしむ。太平にして一事なく、顧みて『関雎』を憶ふ[100]。
寡人が登極して以来、さいわいに四海は昇平、八方は安寧である。跡継ぎがいないため、憂えはつねに切実である。史官の上奏に従って、後宮への御幸を多くしたこともあったが、結局男児は授からず、後を継ぐ人はいない。寡人はどうして悲しまないでいられよう。
（劉皇后）天は宋朝をお守りですから、螽斯[101]麟趾[102]の慶びは、かならずやございましょう。陛下、ご自愛なさいませ。
（楚王が小末が扮した太子、二校尉を連れて登場）それがしは楚王。今日はなぜ太子さまをお連れして兄上に会いにゆくのか。寇承御は陳琳とともに太子さまを救い出し、わたしの屋敷に送ってきて養わせた。まるまる十年育て上げ、劉皇后も手を下すのが難しくなったであろう。兄上はずっと跡継ぎがないために、眉を開かれたことがない。連れてゆき兄上に朝見させて、お尋ねがあった時、実情をお話しし、かれら母子を団円させれば、いかばかりよいことか。宮官よ、はやく取り次げ、趙徳芳が世子[103]を連れて朝見しようとしておりますと。（内官が報せる）
（楚王が入り、見え、跪く）臣趙徳芳がお目通りいたします。
（駕）弟よ、挨拶はせずともよいぞ、
（太子が拝礼して見える）願わくは陛下の万歳万歳万万歳。
（駕）弟よ、これはおまえの何番目の世子か。
（楚王）臣の末っ子で、十二番目にございます。
（駕が見る）龍行虎歩[104]で、とても優れているが、今年幾つになったのだ。
（太子）十歳になりまする。
（駕）弟よ、この子はどの美人[105]が生んだのだ。
（楚王）もともとは李美……
（劉皇后）しばしお待ちを。本日は忙しゅうございますから、日を改めて陛下に奏上なさいまし。椒風館にお酒を調えましたから、宴しにゆきましょう。（駕の手を引いてともに退場）
（楚王が嘆く）ああ、わたしが「李美」の二字だけを言い、「人」の字を言わないうちに、劉皇后さまは兄上を介添えし、酒盛りしにいってしまった。ほんとうに凶悪なお方だ。劉皇后さま、悪い心を逞しくしてどうなさいます。太子さまはわたしの宮殿で養われ、すでにご生長あそばされ、十歳になりまする。連れ出して金水橋の河に棄てることはもうできませぬぞ。とりあえずまた機会を見、兄上に奏上しよう。世子よ、ひとまずいっしょに屋敷に戻ってゆくとしよう。
（太子）かしこまりました。（ともに退場）
（劉皇后が宮女を連れて登場）心に掛けずばそれまでなれど、心に掛くれば人は乱れん。
十年前、李美人が子を生んだとき、わたしは寇承御に命じて殺させた。昨日、楚王は子供を連れて朝見しにきたが、わたしが一見したところ、声音や挙止は、李美人にとても似ていた。かれの年を尋ねたが、やはり十歳であった。わたしはすでに腹一杯に疑いを抱いている。陛下がどの美人が生んだかとお尋ねになったとき、楚王は「李美」と言っていた。二文字だけ言ったとき、わたしはすぐに陛下の手を引き、とりあえず椒風館へ酒盛りしにゆきましょうと言った。そうしなければ、楚王は詳しいことを話し、大変なことになっていた。わたしは今から寇承御を呼び出してきて、李美人が生んだ子を求め、どう言うかを見ることにしよう。宮女よ。寇承御を呼んできてくれ。
（宮女が叫ぶ）寇承御どの、皇后さまがお呼びです。
（承御が登場、会う）皇后さま、わたくしを呼ばれましたはいかなるご用にございましょう。
（劉皇后）跪かないかえ。
（承御）何をお咎めでございましょう。
（劉皇后）寇承御よ、尋ねるが、十年前、李美人が生んだ子供は、今どこにいるのだえ。
（承御）ああ、これは十年前の事。どうして冷たい灰の中からにわかに火が出てきたのだろう。皇后さま、わたしはあなたに従って裙刀で刺し殺し、金水橋の河に棄てました。
（劉皇后）金水橋の下に棄てたなら、屍骸を掬ってきて見せておくれ。
（承御）死んで十年を経ておりますから、屍骸を掬いにゆくことはできませぬ。
（劉皇后）この小娘は本当のことを言おうとしない。打たねば白状しないだろう。宮女よ、十人の内使を呼んできて杖で打たせておくれ。わたしはみずからこの事を尋ねよう。
（宮女が内使を呼んで並ばせる）
（劉皇后）あちらに大きな棒を用意するのだ。
（内使）かしこまりました。
（劉皇后）寇承御よ、正直に申すのだ。あのときの子はどこにいる。
（承御）ほんとうに河に棄てました。
（劉皇后）まだ嘘をついている。打ってくれ。
（内使が打つ）十、二十、三十。
（承御）ああ、ひどく打たれた。
（劉皇后）寇承御よ、正直に白状するのだ。あの子がいるかいないかを言うのだよ。
（承御）皇后さまがわたしをひどくお打ちになっても、河に棄てられ、死んで久しゅうございます。
（劉皇后）この小娘は頑強で、打たれ強い。さらにじっくり打ってくれ。
（内使が打つ）十、二十、三十。
（劉皇后）この小娘は打てば打つほど白状しようとはしない。思えばむかしみずから金水橋へ見にいったとき、陳琳めが、妝盒を抱き、垂楊の樹の下でこそこそしていて、わたしが来るのを見るとたいへん慌てていた。あの時、わたしも盒の中にはきっと余計なものがあろうと疑ったのだが、聖駕が中宮に来たため、盒子を開けて見なかった。思うにきっと陳琳が不正を知っているだろう。宮女たち、陳琳を呼んでくるのだ。
（宮女が叫ぶ）陳琳さまはどちらでしょうか。劉皇后さまがお呼びです。
（正末）わたしは陳琳。今、劉皇后さまは宮門を閉じ、寇承御どのをお取り調べだ。人を遣わしわたしを呼びにこさせたぞ。十年前の事が発覚してしまったわい。劉皇后さま、この事はもうやめになさるべきです。なぜ寇承御をお取り調べになるのでしょうか。（唱う）
【双調新水令】宮門を閉ぢ、女嬌姿を取り調べたるを聴きたり。おそらくは十年前の一件なるべし。寇夫人はさきに胆をぞ寒からしめたる。劉皇后さま、あなたはまことに無慈悲なり。そのかみ如意を鴆殺し、戚氏をば人彘にせし呂太后にも劣ることなし[106]。
【駐馬聴】嫉妬の心を逞しうして、六宮の人々の子を生まざること、李美人の落ち度を捜すことを望めり。一碗の飯になどかは二本の匙を挿すべけん[107]。妃嬪たるものはこつそりと会ふよりほかなく、宮女に褒美を与ふるにおほやけに賜はんとはせず[108]。なにゆゑぞかくなせる。鳳楼に羊車が至るを恐るればなり[109]。
（入り、見え、叩頭する）皇后さまがわたくしを呼ばれましたは、いかなるご用にございましょう。
（劉皇后）陳琳よ、今、寇承御がいるのだが、十年前、金水橋の河のほとりに行かせ、一仕事させたのだ。今日は尋問しているが、死んでも白状しようとせぬから、杖で打ってくれ。
（正末）皇后さま、陳琳は手には鶏を縛ったり、鼠を捉えたりする力もございませぬから、杖で打つことはできませぬ。
（劉皇后が怒る）命令に負くのか。
（正末が叩頭する）わたしは杖で打ちましょう。（杖で打つ）
（劉皇后）陳琳よ、大きな棒を選んで打って、いっぺんに打ち殺したら、証人が死ぬことになってしまう。
（正末）小さな棒を選んで打ちましょう。
（劉皇后）陳琳よ、小さな棒でかれを打ったら、かれは打たれた痛みから、おまえを巻き添えにするだろう。
（正末）大きな棒も駄目、小さな棒も駄目ならば、中ぐらいのを選んで打つといたしましょう。（打つ）寇承御よ、はやく白状するのだ。白状するのだ。
（唱う）
【沽美酒】打たれてあなたは半死半生。
（寇承御）ほんとうに河に棄てました。
（正末が唱う）一なら一、二なら二とせよ[110]。
（小声で言う）承御どの、あなたは仰いませんでしたか、
（唱う）潜龍を護りたる掌命司ぞと。この話はわが耳に入り、今日となりてもおのづと思はる。
（劉皇后）陳琳よ、どうして打たぬか。絶対に行方を答えさせるのだ。
（正末が唱う）
【太平令】言ひがかりをつけたるにはあらず、李美人の生みし子供のことを問ふのみ。しつかりと言ひ、あなたが錯乱するを許さず。太子さまを溺れ死なしめたりとのみ言ひ、陳琳をな巻き添えにせそ。
（劉皇后）陳琳よ、なぜそのように打つのだえ。巻き添えにされるのを恐れているのだろう。
（正末が唱う）
【雁児落】軽く打たば御諚に違ふ恐れあり、重く打たばかれが弱みを吐き出す恐れあり。わたしがかれの口中の詞を断たば、かれは心の中の事をば言ひ得まじ。
【得勝令】ああ、あなたはまさに口を閉ぢ臙脂を塗りて、拒むべくんば拒めかし[111]。
（承御）たくさん打たれた。これほど何度も重く打たれたことはない。もがいて起きあがり、誰なのか見ることにしよう。
（正末が唱う）眼を瞠り、わたしを見ること十余たび、いかでかはびしびしと棍もて打つべき。
（劉皇后）陳琳よ、どうして打たない。
（正末が唱う）皇后さまもじつくりと、睛を転ずることもなくわたしを視たり。
（承御）ひどく打たれた。
（正末が唱う）寇承御どの、口をなききそ、わたしは死を恐るることのなき忠臣のあなたを打てり。
（承御が見る）打っているのは陳琳どのだったのですか。陳琳どの、どうしてわたしをお打ちになるのでございましょう。
（劉皇后）もう巻き添えにしようとしている。
（正末が跪く）皇后さま、あいつは打たれて頭がぼんやりしています。でたらめをお聴きになってはなりませぬ。（唱う）
【川撥棹】かれは階址に倒れたり。柔肌は青と紫、かれは細き身、痩せたる腰にて、打たるれば慌てて陳琳を指させり。あなたはまことにじつくりと考ふることぞなき。などてわたしがまことに関はりありと言ひたる[112]。
【七弟兄】われら二人は言葉を交はし、言葉を交はし、あたかも訴訟するがごと。あなたは隠せ、隠せ、隠せと言ひて、君王の嗣の絶えんことを恐れり。今日は陳琳を指さし、指さし、指さして、証人と言ふ。凶悪、凶悪、凶悪な、寇承御はわたしの追魂使[113]となる。（打つ）
（承御）陳琳どの、もう何回か打ち、わたしを打ち殺してください。
（正末が唱う）
【梅花酒】ああ、雪は消ゆるも屍を見る[114]、打たれてあなたは息は詰まりて声はか細く、わたしは涙を拭ひつつ眵を揉めり。
（承御）陳琳どの、何を恐れていらっしゃる。
（正末が唱う）玉葉金枝を巻き添へにせんことを恐れり。あなたはまことに始めあれども終はりなし[115]。多く議論し事を誤る必要はなし[116]。
（劉皇后）あの日、おまえはわたしがやってくるのを見ると、すぐに金水橋のたもとの垂楊の樹の下に隠れていったが、太子をおまえは見たのであろう。
（正末が跪く）陳琳は太子さまなど見たことはございませぬ。寇承御に尋ねてみましょう。（問う）寇承御どの、あの日はわたしに会われたか。
（承御）陳琳どのにお会いしたことはございません。
（正末）皇后さま、寇承御は陳琳に会ったことがないと申しております。
（劉皇后）それならば、陳琳よ、さらに打て。
（正末が打つ）
（唱う）あなたはあのとき御溝の辺で太子を抱けり、楊柳の岸でわたしを見し時は、あなたはみづからわたしに向かひていたく嘆けり。
【収江南】ああ、あなたは言へり、金水橋でぽとんと半死半生の子供を棄てりと、
（劉皇后）陳琳よ、その屍骸は河にあるから、掬いにいっておくれ。
（正末）皇后さま、十年になるのでございますよ。
（唱う）今は泳いでゆききする魚の餌となりぬべし。
（劉皇后）そんなことはどうでもよい。子供の事をはっきりと尋ねておくれ。
（正末）どうしたらよいだろう。
（唱う）まことに憂へを解くこそ難けれ。皇后さま、いかなるご存念なりや。などてわたしに敲くべし剮にすべしとの罪名を押しつけたまふ。
（承御）皇后さま、お打ちになるのはどうしてでしょう。
（詩）世に生くる人は所詮は無常なり、名をし留めば史冊は香らん。大鵬が梧桐樹に飛び上がりなば、傍の人はおのづから長短を語るべし。（階にぶつかって死に、退場）
（正末が跪く）皇后さま、あの寇承御は打たれるのに耐えられず、みずから金階にぶつかって死にました。
（劉皇后）あいつが死んだだって。それはまずい。証拠が取れなくなってしまった。内使たちよ、陳琳を捕らえてくれ。
（浄が内使に扮して登場）陛下が陳琳どのを至急お召しでございます。
（劉皇后）陛下がかれをお召しなら、とりあえず行かせよう。妝盒に余計なものがあったのかなかったのかをゆっくりと取り調べよう。やすやすと許しはしまい。（ともに退場）
（正末）劉皇后さま、あなたはまことに凶悪で、わたしはまことに剣呑でございます。（唱う）
【鴛鴦尾煞】劉皇后が三尺の青鋒を賜はらぬうちに、寇夫人は金階をみづから選び、死にたりき。尋問し、対質せしも徒とはなりぬ。千般の拷問をなしつれど、半枚の自供を得しのみ。宮女なれども男児に勝る志あり。まことに忠直無私にして、香馥馥たる汗青の書に記すに堪へたり。（退場）
第四折
（太子が仁宗に扮し、二人の宮女、四人の内宮を従えて登場、詩）少年にして楚宮の中に養はれ、虎歩龍行し、おのづと優れり。今日みづから高帝の業を継ぐも、代々功徳を修めたるためならん。
寡人は宋の仁宗だ。幼いときから楚王の宮中で養われ、叔父のおかげで成長したが、叔父はいつも、わたしは妝盒に入れられて、楚王府に送られ、養われたと言っていた。宮女の寇承御と宮内使陳琳の二人は、わたしへの功績があったというが、詳しいことは分かっていない。わたしが十歳の時、連れられて父上に朝見をしにいった時、わたしが龍行虎歩したところ、父上は太平の天子の相があると仰り、叔父にどの美人が生んだ子なのかとお尋ねになった。叔父は、「ほんとうは李美…」と言ったが、「人」の字は言わなかった。その時、劉太后は父上を招いて宮中へ酒盛りをしにゆかせた。わたしは楚王府に戻ってくると、くわしく叔父上に尋ねたが、叔父上はもうしばらくしたら話そうと仰り、しらぬまにまた十年が過ぎてしまった。先だって父上は病が重くなったとき、楚王の第十二子を迎えて、皇統を継がせよとご遺言なさったが、それがまさに寡人なのだ。思えばはじめて宮中に入ったときに、寡人は各宮殿に行き、目通りしたが、あの劉太后はわたしが西宮へ行くことだけは許さなかった。西宮は李美人の居る場所だ。叔父上が十年前に仰っていたあの李美人だろう。わたしはかれが生んだ子なのかもしれない。今父上は昇天し、寡人は即位し、劉太后は垂簾聴政することはできなくなり、一切の朝廷の政務は、大小となく、すべて寡人が行っている。宮女寇承御の所在を尋ねたところ、とっくの昔に亡くなったということであった。今日は政務を終え、宮殿に戻り、老いた宦官の陳琳を呼び出してきて、詳細を尋ねれば、きっと事情が知れるであろう。内侍たち、陳琳を呼んできてくれ。
（内官）かしこまりました。陳琳よ、どこにいるのだ。
（正末が登場）日月が過ぎるのはまことに疾い。妝盒を抱き、太子さまを救い出してきてからはやくも二十年になる。今日は玉座に登られて、老いぼれをお呼びだから、ゆかねばならない。（唱う）
【中呂粉蝶児】日月それ除り[117]、草は生え玉階と輦路[118]を覆へり。そのかみは一人一人が宮様[119]の妝梳をなし、陽台[120]に勝り、洛浦[121]を凌ぎ、姿は花か玉のやう。福分のいかばかりなるかを知らず。幸と不幸はいづれも天の数なり。
【酔春風】劉皇后は寝殿で百年の歓[122]を占め、李美人は冷宮で一生の苦を受けり。かのひとは策を用ゐて小潜龍を葬り去れりと思ひたれども、当朝の主と、主となれりとはいかで知るべき。かのひとは凶悪な心もて、根を除き、草を剪らんとし、咲く花を樹に満たしめんとせざりき。
（入り、見え、叩頭する）陛下。わたくしを呼ばれましたは、いかなるご用にございましょう。
（仁宗）寡人がおまえを召したのは、ほかでもない。叔父はわたしにいつもこう言っていた。わたしは妝盒に入れられて、楚王府に送られて養われたと。またこうも言っていた。宮女寇承御と宮中に出入りする内使陳琳の二人は、わたしにたいへん功績があったから、忘れてはならないと。先日わたしが寇承御の所在を調べたところ、とっくの昔に亡くなって、おまえだけがまだいるということだった。この件につき、くわしく寡人に話して聴かせよ。
（正末）くだくだしいのがお嫌でなければ、わたしが一遍お話しするのをお聴きください。
（唱う）
【石榴花】六宮に女嬌姝は多にあり、夜ごと羊車[123]を待ち望みたり。いづれも千妖百艶の美人なれども[124]、そもそも命は寡宿[125]を犯し、孤独となれる定めなりけり。黄昏時となりぬれば風を迎ふる戸を半ば掩ひつつ、幾たびか短く嘆き長く嘆ける。これこそは天が怨女を悲しましむる処にして、誰かは二更の初めまで待たざらん。
【闘鵪鶉】水のごと魚のごとくするを望まず、雲となり雨となることを望めり。繍榻と香茵に伴ひて、錦屋と華堂に出入りす。月影の心なく索居を照らすも、格別の苦しみにして、夜の長きにむなしく耐へて、晨鐘と暮鼓を聴くなり。
（仁宗）ちょっと待て。陳琳よ、おまえの話は、六宮で待ち望む宮女のことばかりだ。どうしてそんな話をするのだ。父上が御園で金の弾丸を打ったと聞いたが、始めから終わりまで、寡人に話して聴かせるのだ。
（正末が唱う）
【普天楽】思へばむかし御園の中で、先帝は散歩したまへり。春風は駘蕩として、春色に栄は開けり。錦鳩に中てんとし、金の弾丸を打ちたれど捜し得ざれば、妃嬪らを花の茂みに手分けして行かしめたりき。
（言う）その時に西宮の李美人さまが金の弾丸を拾われたのでございます。
（唱う）李美人さまが荒蕪にて金の弾丸を拾ひしは[126]、生まれながらの福分ならん。さらに姻縁もふさはしきものなれば、麟趾[127]関雎[128]を成就せり。
（仁宗）寡人はちょうどおまえに尋ねようとしていた。李美人が金の弾丸を拾い、太子を生んだのなら、今その太子はどこにいるのだ。隠してはならぬ。逐一はっきり語り、寡人に知らせよ。
（正末が跪く）陛下がわたしの死罪をお赦しになるのでしたら、申し上げましょう。
（仁宗）安心せよ。とにかく話せ。
（正末が叩頭する）先帝陛下はその晩すぐに西宮に御幸したまい、李美人は太子をお生みになりました。ところが劉…（口ごもる）申すわけにはまいりませぬ。
（仁宗）寡人がいる。とにかく話して構わぬぞ。
（正末）劉太后さまは嫉妬の心を起こされて、宮女寇承御にお命じになり、宮中から太子さまを出させ、裙刀で刺し殺させ、金水橋の河に棄てさせようとなさいました。寇承御は先帝さまが跡継ぎがないことを愁えてらっしゃることを考え、手を下そうとせず、一心に太子さまをお救いしようとしました。ただ、独力ではいかんともし難かったため、天に祈り、人が来て計略を相談することを望んでいました。おりしもわたしは先帝さまの御諚を奉じて、妝盒を抱えて後花園に行き、果物を採り、楚王さまのお誕生祝いをしにゆこうとしておりました。寇承御はわたしを呼び止め、相談し、太子さまを宮中から救い出し、行くところは一つしかない、楚王さまは実の叔父君でいらっしゃるから、養うことができるだろう、今、楚王府へお誕生祝いをしにゆくのは、まさに天意だと言い、太子さまを妝盒の中に置きました。行こうとしますと、なんと劉太后さまがやってこられて、わたしを呼び止め、どうしても盒子を開けて見ようとなさいました。わたしは必死に盒子の蓋を押さえつけ、盒子には御筆の黄の封がございますから、みずから先帝さまの御前に行かなければ、開けて見ることはできませぬと言いました。劉太后さまはお怒りになり、みずから手をお触れになり、盒子の蓋を開けようとなさいました。（手を挙げる）ありがたいことに、ちょうど先帝さまが中宮にお出ましになり、劉太后さまがあわてて聖駕をお迎えにゆかれたために、わたしはようやく殺されるのを免れたのでございます。まことに危ううございました。（唱う）
【上小楼】劉太后はいとも凶悪、一時の嫉妬によりて、万載の江山をたえて思はず、千般の悪計と、百様の謀略を逞しうせり。宮女寇承御にひそかに命じ、太子をむごく殺さんとせり。
（仁宗）それならば、その太子とはまさに寡人か。おまえたち二人が救ってくれたのは本当に有り難い。その後の事も、くわしく話し、寡人に聴かせよ。
（正末）陛下の天にも等しい洪福がございませねば、このように「百霊がみな助ける[129]」ことはなかったことでございましょう。（唱う）
【幺篇】一つには洪福があり、二つには天の加護あり。われら二人は策を設けて、心を一にし、身命を棄てんとしたりき。妝盒を抱きしめて、宮女に別れて、すみやかに進みゆきしに、はからずも劉太后に出くはしたりき。
（仁宗）妝盒に御賜の黄の封があったなら、太后を恐れることはなかっただろう。
（正末が跪く）劉太后さまは盒子の蓋をみずからお開けになろうとしましたので、驚いて死にそうになりました。
（唱う）
【十二月】幾つかの雕欄[130]を巡りゆき、百歩あまりも行かざりき。よし張良のごとき伎倆があらんとも、呂后のごとき機略ある劉太后にいかで当たらん。ぐいと咽喉を押さへられ、脅えてわたしは魂魄はすつかりなくなりぬ。
（仁宗）その時、寡人は妝盒の中で、どうしていたのだ。
（正末が唱う）
【堯民歌】小儲君はむしろ安安穏穏と、妝盒を護身符としてじつとしたまへり。しかれど陳琳は戦戦兢兢、天のごとくに大いなる悶葫蘆を抱けり。劉太后さまは嗔嗔忿忿としたまへり。このやうにあれやこれやとひどく手荒にしたまへば、慌ててわたしはおろおろし、巧みな言葉でごまかせり。はじめは、はじめは、わたしも必死に抗ひたりき。
（言う）ところが劉太后さまは、
（唱う）妝盒を開けて見んとぞしたまひし。
（仁宗）それならば、おまえはどうしてわたしを運んで楚王の屋敷へ行ったのだ。
（正末が唱う）
【耍孩児】わたしはそのとき機関はかならず露顕し、陳琳はいづこで死ぬやらと思ひたれども、聖明の天子[131]は百霊に扶けらるれば、さいはひに劉太后は鑾輿を迎へにゆきたりき。金鎖を解きて龍子[132]を飛ばし、雕籠[133]を砕き鳳雛[134]を放つがごとく、宮門を出でゆくを得き。それゆゑに宗廟は安らかとなり、民社[135]に虞はなくなりぬ。
（仁宗）おまえとともにわたしを救った寇承御は、いったいどうして死んだのだ。わたしに話してくれ。
（正末）太子さまを楚王府へお送りしていった後、ご生長して十歳におなりのときに、楚王さまは太子さまをお連れして入朝なさいました。劉太后さまはご容貌が優れているのをご覧になりますと、十年前の事を思い出されて、寇承御を取り調べ、太子さまの行方をお尋ねになろうとしました。寇承御は自白しようとせず、みずから金階にぶつかって死んだのでございます。かわいそうに。（唱う）
【二煞】十年前、入朝したまひたるときに、劉太后は相貌の優れたるを見、たちまちに心頭に怒りを発し、西宮の男児の存否、金水溝の辺の事の有無を問はんとしたまへり。憐れや数多の苦しみを受け尽くし、丹闕[136]に名を題することも叶はずに、黄土に骨を埋むるのみなり[137]。
（仁宗が涙を落とす）寇承御は寡人を救うために、階にぶつかって死んだのか。寡人はとても悲しいぞ。劉太后が嫉妬の心を抱き、このような天理に悖ることをしたとは。しかし寡人が以前の事を追究すれば、先帝さまの盛徳を損なう恐れがあろうから、今はひとまず沙汰をせぬこととしよう。西宮を合徳宮[138]と改めて、李美人を奉じて純聖皇太后にして、寡人が毎日問安視膳[139]し、太子としての礼節を施そう[140]。楚王は養育の功績が多大であるから、さらに荘田万頃を賜わろう。寇承御には墳墓を建ててやり、忠烈夫人に封じ、墓守を三十戸、祭田を千畝置くとしよう。陳琳は封じて保定公となし、城中の甲第一区[141]を賜わって、年俸銀万両、禄米三千石を支給し、宗族の賢い者を選び、その後を継がせ、代々国恩を受けさせよう。
（詩）劉太后の滔天の計略ははや窮まれり。先帝を傷ふことを恐るれば[142]ひとまず許せり。荘田を特に親王府に賜ひ、徽号[143]を先に太后宮に加ふべし。白骨の亡魂に封典[144]を厚くして、蒼顔の老監[145]に多くの恩を賜ふべし。これよりながく昇平の福を受け、万歳千秋ともに長寿を祝ぎたてまつらん[146]。
（正末が叩頭して感謝する）願わくは、陛下の万万歳、万万歳。（唱う）
【尾煞】死したるものは墓の上に贈封[147]を加へられ、活きたるものは階の前に俸禄を賜はれり。はじめて示せり、善報と悪報は所詮は人の行ひによるものなるを。これもまた太平の世の万万歳なる主上を救ひたればなり。
最終更新日:2007年6月24日
